本稿は2009年4月11日、新潟県長岡市山古志地区で行われた山古志住民会議・東洋大学合同の集会での報告を基に、新たに書き下ろしたものである。
第1節 流域を生きる
(1) 信濃の流れ
甲武信ヶ岳。標高2475メートルのこの山は、甲州(山梨県)、武州(埼玉県)、信州(長野県)三県境の接点に聳える。この山の頂に降り注ぐ雨水。その運命はどの斜面を下るかで大きく変わる。東斜面(埼玉県側)を下る雨水は荒川水系に紛れ込み、173キロの旅の後東京湾に辿り付く。もし南斜面(山梨県側)を下れば、笛吹川を経て富士川に合流し、駿河湾で128キロの旅を終える。いずれにしても旅はさして長くなく、終着点は太平洋だ。しかしもし北、あるいは西斜面(長野県側)を下ることになると、その前途には思いがけない長旅が待っている。
長野県側に集まった雨水は千曲川となる。その流れは多くの盆地を縫うように進む。その流れる様はまさに“千曲”の名に相応しい。佐久、小諸。北上した流れはここで上信国境の山岳地帯に行く手を阻まれ、西に蛇行する。そして上田、長野に至る。ここで飛騨山地から流れ出た犀川が合流。流れはここから大きく北東に向きを変える。飯山を過ぎるとまもなく新潟県との県境。ここからこの川は名を変える。信濃川。本来は“越後川”とでも呼ぶべき川にこの名が付けられたのは、越後の人々の源流信濃への敬意からだったろうか。こうして信濃の流れは十日町盆地を越え、いよいよ小千谷。ようやく山岳地帯を抜け出し平坦な地に至る。新潟平野だ。関東平野に次ぐ日本第二の広さを誇る沖積平野。川幅は広がり、流速は一気に落ちる。長岡、三条、そして新潟。総延長367キロ。日本最長の大河信濃川はここで海に注ぐ。終着点は日本海である。
温暖だった縄文時代。現在の日本列島の海沿いの低地は海だった。縄文海進である。そのピークは今から6000年程前。新潟平野も当時は日本海の一部。ここは沖合を北上する対馬海流に運ばれた砂で外海から隔てられた、遠浅の入り江だった。山岳地帯を削るように流れてきた信濃川はここで流速を落とし、大量の土砂を置き去りにする。こうして入り江は徐々に埋め立てられ、湿地化していった。“ラグーン”つまり“潟”の出現である。新潟とは“新しい潟”。今でも新潟平野には多くの潟が残る。この平野は蒲原(かんばら)平野とも呼ばれる。つまりここは蒲(がま)の原だった。
現在、日本列島の水田の多くは川縁の平野部に分布する。しかし水田は平野部で始まった訳ではない。それは山間部の狭い川筋(谷戸)で始まった。川筋の小さな湿地が最古の水田である。川の下流部はたえず氾濫が続き、そもそも人は住めなかった。縄文の時代から、人は小高い丘の縁、つまり見下ろすと川があり、後背部に森林が広がっている台地の縁に集落を作ってきた。台地上の一広がりの畑、そして山間の傾斜地での焼畑が、当時の人々の耕作活動の主な舞台だった。時代が下り江戸期に入る。大掛かりな土木技術が発達する。全国で平野部の川筋の整理が行われ、いたずらに氾濫が起きないようになった。ここに規模の大きな水田が拓かれる。「新田開発」である。こうして多くの人々が台地から平野に降りてくる。
越後平野で本格的な干拓が始まったのも江戸中期に入ってからだ(注1)。1730年、時の新発田藩により信濃川に合流していた阿賀野川に松ヶ崎水路が開削される。さらに江戸後期の1820年、長岡藩と村上藩により新川の開削が行われた。そして時代は下り、1922年国家的大事業として信濃川の大河津分水路が完成する。こうして信濃川、阿賀野川、二つの河川によりもたらされる大量の水(外水)の外洋への排水処理は一段落する。
大正末期、阿賀野川河口近くの木崎村(旧豊栄市・現新潟市北区)で起きた小作争議を描いた『木崎農民小学校の人びと』(注2)には、江戸期の干拓民たちの苦闘が描写されている。干拓地では毎年くりかえされる洪水に備え、集落全体を高い堤防で囲んだ。輪中である。入植者たちはかつての故郷から木の苗と土を運び、湿原に植え、泥田には山の黒土を運び入れたという。しかしこれらの輪中も海抜0メートルに近く、しかも日本海の干満の差が小さいため、人びとは輪中内部に滞る水(内水)に苦しんだ。内水処理に希望がもたらされたのは、遠く時代は下り1892年、この地に最初の排水用ポンプが設置された時だ。以後ポンプの普及により、湛水田は湿田、湿田は半湿田となった。しかしこの平野全域の水田が乾田化されたのは、実に戦後のことである。1946年に始まる農地改革により耕作者自身がポンプ稼動の主体者となった。また土地改良法制定(1949年)により、国営、県営の灌漑排水事業が始まる。さらに耕地整理が行われ、どの区画も水路に面するようになった。低湿で洪水常習地であった蒲原が、日本有数の穀倉地帯に変身するには、何百年にも及ぶ人々の悪戦苦闘の結果だったのである。
(2)緑のダム
流域面積日本3位、年間流量日本1位。流域は有数の豪雪地帯で、春から初夏にかけ大量の融雪水が流れ込み、年間を通じて渇水期がない。それ程豊かな水の流れだからこそ信濃川は、下流域に広大な沖積平野、ひいては肥沃な穀倉地帯を生み出した。しかし一方で過剰なその水の流れは、流域各所でたえず水害をもたらした。戦後信濃川水系には治水、治山、利水などの目的で多くのダムが建設される。しかし上流から流れてくる土砂によりダム湖はいずれ埋まる。ダムは永続性がないのである。しかし永続性のあるダムがある。それは森林だ。
樹木や草もない裸の山肌。そこに雨が降り注ぐ。雨水は強く土を叩きながらその表面を抉るように流れ、急速に沢筋に流れ込む。降雨と共に川の流量は一気に上がる。激しい降雨は、山肌の土砂崩壊を引き起こす。
樹木や草もない裸の山肌。そこに雨が降り注ぐ。雨水は強く土を叩きながらその表面を抉るように流れ、急速に沢筋に流れ込む。降雨と共に川の流量は一気に上がる。激しい降雨は、山肌の土砂崩壊を引き起こす。
一方鬱蒼とした森林で覆われた山肌。降り注ぐ雨水が撃つのは土ではなく、梢の葉だ。ついで雨水は細枝、太枝へと順次下方へ伝わり、ついには一本の太い幹へと集められ、静かにその根元に流下する。樹々の下は落葉、落枝の分解物が分厚く堆積している。流下した雨水は、このふかふかした海綿状の堆積層に次々と吸い込まれていく。雨水はゆっくりと地下深くに浸透し、やがてそこを流れる水脈に合流する。時が経ち、地下水脈はとある沢筋で湧き出す。小さな沢筋は流下しながら互いに合流し合い、やがてその流れは川に注ぎ入る。樹々の葉に降り注いだ雨水が、こうして川に流れ込むには、何年、時として何十年の時間が必要だ。ゆっくりとした、しかも絶えることのない水の流れ。それを演出するものこそ“ダム”の名に相応しい。それが森林である。
山肌の傾斜地を舞台にした農耕は、絶えず土壌流失の危険と隣り合わせている。森林を伐採し、そこに作物を栽培するのは、山肌を裸にすることに近い。その点で伝統的な焼畑耕作は優れた農法である。一定の面積の森林に火を入れる。その灰を肥料として作物を作付ける。燃やされた樹々の根はまだしっかりと土を捉えている。2、3年の耕作の後そこは放棄され、森林に戻される。森林が復活した何十年か後、再びそこは火入れされる。焼畑耕作はこのように、“緑のダム”森林と人間の農耕活動とを共存させるものだ。信濃川流域の山間地でもかつてはこのような焼畑耕作が盛んに行われていた。
傾斜地を階段状の畑地として造成すれば、土壌流失は防げる。しかしそこではダムの機能は期待できない。ところがその階段状の畑地を湛水して利用すれば、そこは再びダムの機能が復活する。棚田である。平坦にした一広がりの畑地。その周囲に畦を巡らす。そこに山肌から湧出する水を導き、イネを栽培する。棚田に降り注ぐ雨水は、一枚また一枚と下方の田を周遊しつつ流れ下る。棚田の枚数が多い程、全体の面積が広い程、雨水が下方の川に流れ込む時間を稼ぐことができる。
江戸期に始まる新田開発は、進歩した土木技術と共に、経済力と大量の人員を動員する強力な権力が必要だった。しかし山間地における棚田の造成は、直接耕作に携わる人が、鍬一本で可能だった。こうして古く山間部の谷戸で始まった水田耕作は、未だ中央集権が確立しない中世期に既に山肌での棚田で普及していった。
長野盆地の南西、千曲市姥捨。千曲川を見下ろすこの姨捨伝説の地に「千枚田」がある。この棚田が文献に現れるのは1578年、その起源は中世にまで遡るという(注3)。この“田毎の月”をはじめ、千曲川、信濃川流域の山肌には数多の棚田が連なる。
2001年、当時の長野県知事田中康夫は「脱ダム宣言」を発した。「数百億円を投じて建設されるコンクリートのダムは、看過し得ぬ負荷を地球環境へと与えてしまう。・・・長期的な視点に立てば、日本の背骨に位置し、数多の水源を要する長野県に於いては出来る限り、コンクリートのダムを造るべきできはない。・・・」(注4)。それ以後長野県内でのダム建設は止まった。
(3)闇が光を守る
標高2000メートル級の山々が連なる上越国境。新潟と首都圏とはこの高い壁で大きく隔てられている。自然の水の流れはこの壁を穿つことはできない。この壁に細く長い“風穴”を開けたのは人間の文明の力だった。1931年、茂倉岳(標高1978メートル)直下を貫通する清水トンネルが完成。東京と新潟が鉄路で直線的に繋がった(注5)。1982年上越新幹線が開通。東京、新潟間はわずか2時間10分に短縮される。一方1954年、茂倉岳の西方三国山(標高1636メートル)に三国トンネルが開通する。東京と新潟が車道で直接繋がったのだ。現在の国道17号線(東京ー新潟間)が全通するのは1964年。ついで1985年関越自動車道(東京ー新潟間)開通。東京、新潟間は自動車でも日帰り可能となった。遠く隔てられていた新潟と首都圏。それを繋ぐ人の流れ、物の流れは、こうして現在では日常化した。
首都東京への一極集中。人、物、金(かね)、そして情報。そのすべてがこの都に集まる。その都市文明の“きらびやかな”あり様が列島中に喧伝される。東京の一人勝ち。地方の限りなき衰退。“壁”を貫く“細く長い穴”は人々に何をもたらしたのだろう。しかもそれが山間地に暮らす人々と、巨大な都とを繋ぐものだとしたら。山間地のくらしと巨大な都市文明の落差。山間地に暮らす人々はそれに戸惑い、恐れ、焦り、妬み、そして自信を喪失していく。もしこのように自分を失っていくばかりであるならば、“壁”を貫く“細く長い穴”のむこうの世界との関係は“程々に”しておくべきであったろうか。人々の意識もまた巨大な都に吸い取られてきたのだ。
源流、上流、中流、下流。同じ川の流域でも、地域によりその風土や歴史は異なる。しかしそれぞれの風土や歴史は、川の流れに沿って連続的に繋がっている。どの地域も、どんな人間も、流域の中では孤立して存在することはありえない。この風土や歴史の連続性は人々に、一体感や、安心・平穏な感覚をもたらす。一方で、流域全体の平安を維持するため、各地域に期待される役割は、その流域での位置により違ってくる。川の水の清濁、多寡は上流の地域のあり方により決まり、その影響は下流に及ぶ。一方で下流の地域は流れ至る水の恵みを活かす責任が生ずる。川の流れは各地域に、自らが果たすべき役割を教えてくれる。水の流れが地域に、そしてそこに暮らす人に与えるものは深く、貴い。今人々が自らの地域のあり様を問うとするならば、その視線は“流域”にこそ注がれなければならないはずだ。
長岡市山古志地区。信濃川下流域右岸の山間地。急峻な山肌はブナの原生林が覆う。そして緩やかな斜面には小さな棚田が連なる。村に降る雨は、ブナ林の地下深く染み込み、数多の棚田を周遊する。無数の沢筋に湧き出た水は、何本かの小さな川となり、村から流れ出す。その流れはまもなく本流信濃に合流する。この小さな村も“緑のダム”の一翼を担っている。こうして無数の“山古志”が信濃川を守っている。そして列島全体では、無数の“山古志”が無数の“信濃川”を守っている。
地球観測衛星の画像がある。宇宙から見た深夜の日本列島。海岸線はほぼ途切れることなく光が続く。日本列島の形がくっきりと浮かび上がる。一際強い光を放っているのは首都圏。関東平野はほぼ全域が輝いている。そして名古屋、阪神の両大都市圏も眩い。新潟平野は小さな光の集団を作っている。一方列島の脊梁部分は深い闇が覆う。しかしこの闇の中にも人のくらしはある。彼らのくらしの場に灯る光はあまりにも儚なく、地上700キロ上空に浮かぶ衛星のレンズには届かない。その闇の中にひそやかに暮らす人々が山を守り、棚田を耕すことで、光の世界は守られている。闇が光を守る。その逆ではない。もし闇の中のそのかすかな光が消え、そこが真の闇に閉ざされれば、眩いばかりの都の光もまた消えてしまう。
*
注;
(1) 新潟平野の干拓の歴史は以下を参考にした。
志村博康編『水利の風土性と近代化』(1992年・東京大学出版会)
(2) 合田新介著(1979年・思想の科学社)
(3) 千曲市観光協会のホームページ
(4) 長野県のホームページ
(5) それ以前、東京と新潟を結ぶ鉄道は「高崎線・信越本線ルート」と「東北本線・磐越西線ルート」の二つがあった。前者は千曲川、後者は阿賀野川に沿う迂回ルートである。
(つづく)