2010年01月号・社説 →e-mail

かけがいのない村
〜山古志の農的くらし」(その2)
明峯哲夫(農業生物学研究室/庭協会準備室)

 

第2節 山を生きる

(1) 山にいつづける知恵

 人にとって自然は、時として荒々しい。強風、豪雨、酷暑、極寒・・・。これらの自然の猛威から逃れ、“平穏で快適な”暮らしを得るべく人が作り上げたのが、“都市”という人工カプセルである。このカプセルの中では、土はビルやアスファルトで覆われ、水の流れはコンクリートの枠に閉じ込められ、原生する森林は切り倒され、生き物の猛々しい生の表出もない。このカプセルは工業的な技術により建設され、維持されている。だからカプセルの中で暮らす一人ひとりの人間にとっては、身の回りの環境は与えられたもので、自らの力で働きかけ、保守できるものではない。
 都市が目指すのは自然の“制圧”である。そこには自然を“活用”する視点はない。“制圧”された自然に人に恵みを与える余力はない。こうしてカプセルは自然の恵みを得ることができない。人々が必要な食糧やエネルギーは、カプセルの外から運び込まれる。都市とは人が自然から身を隠す単なる空間ではない。それは外の世界からモノ、ヒト、カネを奪い続ける“権力機構”である。都市に生きる人のくらしは、この“権力機構”から与えられるものだ。与えられ続ける人間からは、環境に主体的にはたらきかけ、そこから生きる術を得る知恵が失われていく。同時に“平穏で快適な”恒常的環境に閉じ込められた人々からは、変動する環境との交流により喚起される心身のしなやかさもまた奪われていく。

 山間の村。そこにもカプセルは設えられている。しかしそれはささやかなものだ。村は生(なま)の自然に直接包囲されている。人々はこの自然と向き合い生きる。小さなカプセルしか持たぬ村は、他の世界から“奪える”ものは僅かだ。村は自ら必要とするものは“自活”しなければならない。自活は自然の恵みを得ることによりはじめて成り立つ。生の自然に包囲された山の人々にとって、自然はまさに驚異である。しかし同時に自然は恵みを与えてくれる祝福すべき存在でもある。自然の力を活用するには、自然を制圧してはならない。自然を上手に“手なずける”ことが必要である。“手なずける”とは自分の思い通りにすることだ。しかしあくまでも相手の自主性を尊重しながらという点で、“制圧”とは異なる。つまり手なずけるとは“手入れをする”ということである。森(樹)の手入れ、土(畑・棚田)の手入れ、水(小川・水路)の手入れ、道の手入れ・・・。
 2004年10月23日夕刻の中越大地震。自然の地形を無視して直線的に造成された舗装道路は、各所で寸断された。自然を“制圧”しようという人間の技術の限界がここにも露呈する。その脇を自然の地形に沿ってくねくねと続く旧道は、被害がほとんどなかった。もともと山古志の地質は脆く、斜面は徐々に崩れ続けている。村人たちはその崩れ落ちた場所に次々と棚田を造成してきた。“崩れる”という自然の“自主性”を損ねることなく、一方で米を作るという人間の思いを遂げていく。自然を上手に手なずける人々の知恵がここにある。震災後、村々の斜面は分厚いコンクリートで塗り固められた。それは震災による傷口の応急処置の跡を見るようで心を痛ませるが、なおも自然を“制圧”しようという人間の愚かしさをも見せ付けられる思いがする(注6)。
 自然を上手に手なずける技術は、広い意味で“農的技術”と言ってよい。この農的技術なしに村は成り立たない。村人誰もがその技術を持つ必要は必ずしもないが、誰かが(なるべく多くの人が)その技術を体現する必要がある。そしてその技術は若い世代に確かに引き継がれなければならない。

(2) 農の仕事

 草を刈り、動物を育てる。落ち葉をさらい、畑を肥やし、作物を育てる。こうして人は生きる糧を得る。山間地の農の営みは何よりも人々のくらしを支えるものだ。農とは自給のノウハウである。しかし農的営みは“稼ぎ”仕事にもなりうる。自家消費の余剰を売り、現金を稼ぐ。稼ぐためには、生産規模の拡大が必要だし、技術はある程度の効率を求められ、生産物は何がしかの商品性が問われる。こうして農は農業となる。しかしこの稼ぎ仕事はあくまでも、くらしを支える仕事(自給)により支えられている。自給の延長に稼ぎ仕事がある。
 都市に暮らす人々からはくらしを支える仕事が奪われている。生きる糧はすべて“権力機構”が与えてくれる。ただしその生きる糧を与えられる交換条件として、カネが必要である。人々はそのカネを求めて稼ぎ仕事に汗を流す。稼ぎ仕事にありつけない人々は生きる術を失い、文字通り路頭にさ迷う。自らのくらしを支える仕事を奪われているという点では、都市に暮らす誰もがそもそも根無し草である(注7)。

村の自給を支える農の仕組みを考えてみよう(注8)。

①多品目少量生産
 畑の作付けの基本は「多品目少量生産」である。米、豆、芋、野菜類、果樹。食生活を支えるできるだけ多種類の作物を育てる。山古志のような豪雪地帯では、ムギやナタネなど冬作物の栽培は困難である。それだけに雪解けから冬の到来まで、畑を充分に活かし切る工夫が必要になる。かつて山古志の村ではどの家も味噌を作っていた。「昔はどこでも大豆畑、小豆畑があった。何俵と出荷もしていた。しかし最近はムジナ(タヌキ)の害が増えて、豆ができなくなった」(注9)。手前味噌を復活するにはダイズ栽培の復活が必要だ。そのためには野生動物対策が課題になる。

②農産加工
 味噌づくりをはじめ「農産加工」は、村の生活に欠かすことができない。雪国では野菜の漬物つくりは、長い冬を過ごすための大切な習慣だ。体菜(タイナ)など葉菜類の塩漬け、キュウリ、ナスなど果菜類の酢漬け(ピクルス)、特産野菜であるカグラナンバン(トウガラシの仲間)を甘味噌と合えた神楽南蛮。これらは現在も山古志の主婦たちの手で精力的に作られている。

③直販所
 収穫物、加工品の余剰は村内で「直販」される。2009年8月、私たちは山古志村内の直販所(08年山古志支所の調べでは合計14店)のいくつかを視察した。どの店も、帰村直後の08年は村を訪ねるツアー客が多かったが、09年に入ると客足が減ったという。村内の直販所は大きく二つのタイプに分類できる。「余ったものを売る」店と、「売るために作ったものを売る」店である。前者は「売る」という感覚があまりなく、むしろ客との交流を楽しんでいる。そもそも村人たちにとれば「野菜は売り物ではない」(注9)。一方後者は「売る」ことに、より戦略的である。主婦たちの共同耕作グループ「畑の学校」(注8)もその一つだ。彼女たちはこの年も、前年と同様45aの農地で野菜を栽培している(注10)。カグラナンバンは300株、タイナは7a作付けた。これらは二人のメンバーがそれぞれ自宅に建設した加工場で加工され、直販、もしくは農協へ出荷される。現在彼女たちの直販店は週末に営業される。しかし夏野菜などは毎日収穫する。彼女たちの課題は常時営業できる場の確保である。しかしメンバーが少なく(5人)毎日店番はできない。客が集まるかどうかの不安もある。現在余剰分はメンバー各自が買い取り、消費するか、加工に回すかしている。
 直販所のもつ“サロン性”は山古志の財産である。それぞれの店がそれぞれの個性を発揮して客をもてなす。“200円”の買い物に“200円分”のおまけをつけるような。そんなもてなしに客人は魅了される。今全国で活況を呈している共同直販所は山古志に似つかわしくない。零細で少数の生産者、多くの客を期待できそうもない地理的条件。規模の大きな直販所はそもそも山古志では成り立たない。長岡市には山古志地区に「震災メモリアル資料館(仮称)」を建設する構想がある。そんな施設ができれば、そこに直販コーナーを併設することができるかもしれない(注11)。

④循環型農法
 持続的で安定した農業生産には、農地への堆肥施用は欠かせない。健全な土作りは病虫害に強い作物を育てる(注12)。化学肥料や合成農薬の使用は土を殺し、農産物の質を劣化させる。家畜を飼い、その糞尿を堆肥にし畑地に入れる。自然の循環を生かした農法は、かつて山古志では当り前のように行われていた。循環型農法の要は家畜である。牛、山羊、羊などの反芻動物は草を、また豚は農場残渣、台所くずなどを資源化してくれる。どの家の庭先にも再び家畜が復活する日が待望される。
 熊本県水俣市。今もなお水俣病で苦しみ続けるこの町は、「環境モデル都市づくり」を推進している。ゴミの22種類の分別など、「環境・健康・福祉」に対する市民や自治体の意識は高い。また多くの農民(漁民でもある)たちは有機栽培による農産物直販に熱心に取り組んでいる。反農薬生産者連合(現・企業組合エコネット はんのうれん)の生産者たちは、甘夏の有機栽培に既に30年の実績がある。彼等は「被害者が加害者にはならない」と、農薬への依存を拒否し続けてきた。水俣病は不知火海へ垂れ流された水銀が原因だった。海に放出された水銀は食物連鎖の果て人間の身体に濃縮し、人々を難病に陥れた。それは自然への畏れを知らぬ一企業の仕業であった。山古志を襲い人々を苦しめたのは、大地震という自然の猛威だった。今「防災」のシンボルとなりつつある山古志。「防災」とは自然を畏れること。棚田が連なる「防災」の村には、自然循環型の農業こそ似つかわしい。

④集落営農/共同耕作
 「今年は順調すぎる」。山古志・池谷地区生産組合(注8)。組合結成2年目の09年秋、米の収穫を終えリーダーの一人は満足そうにこう言った(注13)。この年の春から、共同作業の要である機械のオペレーターにA氏が参加。3人体制になった。61歳のA氏はグループ“最若手”。次代のリーダーを期待されている。彼はこの春まで長岡市内で小さな会社を経営していたが、退職。「第二の人生は農業」と、あらためて米づくりに励む(注14)。「組合ができてみんな気持ちに余裕ができた」と現リーダー。「女たちに任せていた野菜づくりにじじたちも取り組み始めたし、水田作業もこまめになった。畦草は鎌で刈るようになり、除草剤が少なくなった」。
 震災によりA氏の自宅は全壊。今は長岡市内で暮らす。「山に帰るつもりでいた。でも同じ世代がいなくなるという子どもの意見を尊重せざるをえなかった」。それでも山の棚田に毎日通う。彼は通勤農業者だ。無事だった車庫が今は農作業用の物置。「休憩は日陰。トイレは現場工事の作業場のを借りる」。集落から離れ、村の共同作業には声がかからなくなった。「それはせつない」。しかし彼は営農組合には加わった。組合の寄り合いには必ず参加し、そこでは大いに期待がかかる。通勤農業者を支える仕組みとしても、生産組合の存在は頼もしい。池谷地区ではまもなく地区センターが完成する。そこではトイレや休憩室ができ、通勤農業者も利用できるという。
 高齢化。後継者不在。耕作主体の減少。耕作地を維持するには、耕作者同士が助け合う仕組みが不可欠だ。「畑の学校」のような主婦による共同耕作。そして集落営農。「私たちも60代が主体。いつまで続けられるか。私たちに若手が加わるのもいいけれど、それよりも私たちのようなグループが村内にたくさんできればいい」と、「畑の学校」のメンバーの一人は言う。池谷営農組合のリーダーはこう告げてくれた。「将来は放棄された棚田の管理を組合で請負いたい。組合はあと10年位は維持できるかな」。

(3)耕す空間の未来

 『山古志村史・通史』(注15)。この分厚い書物をひもといてみよう。546ページ。ここに記されている数字には驚かされる。それは1938年(昭和13年)当時の「山古志郷耕作面積別農家戸数」である。総耕作戸数1387戸、総耕作面積1018町歩(約1009ヘクタール)(注16)。震災前2000年の農林業センサスによれば山古志地区の耕地面積は165へクタールだった。現在の村の佇まいを眺めて、1000ヘクタールを越す“広大な”農地が一体どこにあったのだろうかと考え込んでしまう。山の斜面の上の上まで利用していたのだろう。『村史』の別のページを調べてみる。1940年(昭和15年)の米の作付け面積は村全体で534.8町歩(約530ヘクタール)、収穫高は9052石(約1357トン)とある(注17)。つまり当時の農地の半分程は棚田で、米を作っていた。因みに帰村後の08年、山古志地区の水稲の作付け面積は110ヘクタール程だった(注18)。70年前、村ではその5倍近い面積に米が栽培されていたのだ。では戦前、残る概ね500ヘクタールの畑では何を作っていたのだろう。恐らくその多くは桑畑だったと想像される。当時村では養蚕が盛んだった。棚田を耕すには牛の力を借りられる。しかし急峻な斜面での労働は鍬一本だったろうか。先人たちの労働の厳しさがあらためて偲ばれる。
 こうして耕す空間は減りつづけてきた。これからのシナリオは三つある。農を活性化し再び耕す面積を上向かせるのか、現状を維持させるのか、このまま衰退に向かうのか、である。
 一人ひとりの人生のありかたは、その人が決める。しかしその人生は「村」により支えられている。その「村」のあり方は、人々の合議で決められる。一人ひとりが「村」のあり方を決め、「村」により一人ひとりの生き方が決まる。この仕組みが「自治」である。自治が健在である限り、「村」の未来や、一人ひとりの未来は、単なる“いきがかり”ではなく、主体的に「選択」したものとなる。
 仮設くらしが続いていた07年7月、「山古志住民会議」が発足した。「行政ばかりに頼るのではなく、住民の主体的な発想や想い、願いを復旧・復興に活かしていきたい」(注19)との住民の思いがこもる。既に震災直後、それまでの規定方針に従い山古志村は長岡市と合併していた。村の議会はなくなった。村独自の予算もなくなった。むらづくりを合議する新しい自治の仕組みは、住民自身がつくるほかない。その人々の合議の場で、耕す空間の未来についてはどのような「選択」がなされるのであろうか。

おわりに〜がんばらない村

 『村史』は、今から30年ほど前の村の“にぎわい”をスケッチして終わる。
肉牛肥育組合を作った若者たちがいる。飼料を購入しないで「あり余る草資源を有効に活用」して牛を飼い始めた人がいる。スズラン、ユリ、シャクヤクの球根やカブを育てる若者がいる。シイタケやナメコ、ヒラタケの植付けを試みた「老人クラブの有資格者」がいる。炭焼きを復活させた人がいる。小・中学校の給食野菜を平場から購入しているのはおかしいと、共同栽培を始め、地区内の野菜の自給に成功した主婦たちがいる。宮本常一の提言を受けて(注20)、村の模型作りを始めた若者たちがいる・・・。こんな村人たちの活動は、「かけがいのない村」への愛着と、そこで生きる誇りがそのエネルギーになっていると、『村史』は語りかける。

 たえず何かを探し求めることは辛く、苦しい。いつも不平・不満が残る。ないものねだりをしない。背伸びをしない。今ここにあるものの価値を認め、それを最大限活かそうと工夫する。ここには愉しみと、歓びがある。ユートピアは、それを探そうとする限りどこにもない。“トンネル”の向こうにはユートピアはないのだ。しかしユートピアは、今、ここで最善を尽くす限り、今、ここに与えられる。ユートピアは“トンネル”のこちら側にこそ存在する。NoーwhereからNowーhereへ。
 何か特別なものがあるわけではない。ごくあたりまえのものが、ごくあたりまえにある。うまい米、野菜。庭や道筋は花でいっぱい。何でも自分で作って、誰もが物知りだ。客人はいつも優しく迎え入れられる。美しく、温かくて、美味しい。こんな村がユートピアでなくて、どこにユートピアがあるのだろう。
 「色々なものを作って暮らしていければこんないい所はない」。ある村人がそう言った。山古志は“がんばらない”村なのである。

 萱峠に登る。標高680メートル。ここは山古志で最高の地点である。震災前、峠に拡がるなだらかな斜面は村の共同放牧場だった。しかしここにも地震の被害が及んだ。草地には今も深く、長い亀裂が延び、給餌場は残骸をさらす。南東方向。まるで箱庭のような山古志の村を見下ろす。その遥か向こうには、越後三山(八海山、越後駒ケ岳、中ノ岳)が望める。そして西方に転ずる。低い山脈(やまなみ)を隔てて眼下に広大な水田地帯が拡がる。川筋が白く光る。信濃の流れだ。あのあたりから河口まであと数十キロ。遥か甲武信ヶ岳から始まった長い旅は、まもなく終わる。(完)

注;

(6)中越大地震の被害について、土木工学の専門家の総括はどうなのだろう。
(7)筆者は長年、市街地内農地を利用した都市住民による自給農園運動に携わってきた。以下の拙著を参照されたい。
『やぼ耕作団』(1885)風涛社、『ぼく達は、なぜ街で耕すか』(1990)風涛社、『都市の再生と農の力』(1992)学陽書房、『自給自足12か月』(1996)創森社(共著)、『街人たちの楽農宣言』(1996)コモンズ(共著)
(8)拙著(2009)「山古志の農業」(第2報)『福祉社会開発研究』第2号 参照
(9)農家からのヒアリング(2009年10月)
(10)メンバーからのヒアリング(2009年10月)
(11)山古志支所担当者からのヒアリング(2009年10月)
(12)中島紀一他編(2010)『有機農業の考え方と技術』コモンズ 参照
(13)ヒアリング(2009年10月)
(14)ヒアリング(2009年8月)
(15)村史編集委員会編(1985)
(16)旧種苧村、太田村、竹沢村、東竹沢村の合計
(17)反収は1ヘクタール当たり約2.3トンである。
(18)山古志支所調べ
(19)山古志住民会議編(2009)「つなごう山古志の心 やまこし夢プラン」
(20)山古志村写真制作委員会編(2007)『ふるさと山古志に生きる一村の財産を生かす宮本常一の提案ー』農文協 参照