2010年03月号・社説 →e-mail

グレースランドの庭
明峯哲夫(農業生物学研究室/庭協会準備室)

 

*カントリー・ボーイ*

 1935年1月のある日、アメリカ合衆国南部ミシシッピ州の小さな町イースト・テゥーペロウに一人の男の子が生まれた(実際は双子だったが、一人は未熟児ですぐに亡くなった)。若い両親にとって初めてのこの子は、エルヴィス(Elvis)と名付けられる。この町の住民の多くは、工場労働者や農場の小作人などプア・ホワイトと呼ばれる貧しい白人や農場などで働く黒人たちであった。男の子の父親ヴァーノンも典型的なプア・ホワイトで、1929年に始まった大恐慌の時期を牛乳配達、小作人、大工、日雇いなどをして切り抜けていた。母親のグラディスは結婚前から農場を転々としていた。この辺りは“綿花王国”の中心部。“綿の収穫期には腰を曲げて綿花を摘んでいくグラディスにまつわるようにして遊ぶ幼いエルヴィスの姿があった”(注1)という。
 41年、第二次世界大戦が始まる。農場の仕事もめっきり減り、ヴァーノンはとなりのテネシー州・メンフィスの軍需工場に出稼ぎに行く。しかし終戦と共に失職。一文無しになった一家は48年、身の回りの品物を37年型プリマスのトランクと屋根に積み込みテゥーペロウを後にする。目指すは大都市メンフィスだった。その荷物の中には、エルヴィスが11歳の誕生日に母親から買ってもらった一台のギターも含まれていたに違いない。しかし内気で、おとなしく、いつもオーヴァーオールを着ていたこのカントリー・ボーイが世界を揺るがす存在に成長していくには、まだしばらくの時間が必要だった。

*コットン・キングダム*
 
 第二次大戦直後の合衆国南部で、農村から都市へ流れ込んだのはエルヴィス少年一家だけではなかった。戦後20年の間に合衆国南部では1100万人の離農者がいたという。その背景にはこの時代の“農業革命”があった。
 もともと合衆国南部の農業は、プランテーション農業と呼ばれる特殊な農業である。大規模な農地で多くの労働者を使い単一の作物を栽培する企業的農業をいう。17世紀初頭、イギリス人がヴァージニアに入植し、プランテーションは始まる。最初に手がけたのはタバコ栽培だった。タバコ(Nicotiana tabacum)は南米アンデス山脈の東側の地帯が原産地で、栽培もここで始まった。1612年、ヴァージニア先住民の酋長の娘、ポカホンタスと結婚したイギリス人入植者、ジョン・ロルフが、そのタバコを母国人好みの甘い香りのタバコへと改良する。この二人の出会いを描いたアメリカ映画『ニュー・ワールド』(テレンス・マリック監督・2006年日本公開)では、当時の入植者たちの農耕の様子が映されていて大変興味深い。
 プランテーションでは栽培も収穫もすべて手作業で行われる。農地面積を拡大すれば生産量を増加できるが、それにはさらなる労働力投入が必要だ。農場の労働力は貧しい白人とアフリカから“輸入”された黒人たちだった。ヴァージニアに初めて黒人が連れてこられたのは1619年。1664年には「黒人法」が制定され、黒人を無賃金で一生使役する“奴隷制度”が合法化される。通常の農業では、生産性を向上させるには地力や作業効率の増進が図られる。しかし南部のプランテーション農業では、生産性の向上はひたすら農地と労働力の拡大により行われた。それには、黒人の労働力を搾取し、先住民から土地を収奪することが不可欠だった。

 南部プランテーションでタバコと並び重要な作物は、中南米起源のワタ(Gossypium hirsutum/ American Cotton 陸地綿)である。19世紀に入ると南部ではワタがタバコを抜いて主要な作物となり、盛んにヨーロッパに輸出される。18世紀末には、イーライ・ホイットニーにより綿繰機が発明された。人力による綿繰り作業に比べ、効率は50倍に上昇したという。こうして合衆国南部は“綿花王国”の時代を迎える。
 南北戦争(1861〜65年)後、黒人奴隷は“解放”される。しかしそれでもプランテーションは揺るがなかった。黒人や貧しい白人は小作人や労働者として大規模農園を支え続けたからだ。しかしその“王国”も20世紀に入ると傾き始める。
 1892年テキサス州で綿実を食い荒らす害虫(メキシコワタミハナゾウムシ)が発見され、1920年代にはその被害が南部全域に拡がった。当時効果の高い有機系殺虫剤はなかった。この頃には連作障害による地力の疲弊も深刻化していた。さらに40年代に入ると国外で生産される綿花との価格競争が激化し、それに敗北していく。労働集約的な生産体制では、価格変化に対応できなかったからである。50年代には合衆国の綿花栽培の主力は西部(カリフォルニア、アリゾナなど)の資本集約的な灌漑農業地帯に移動していく。こうして第二次大戦が終わる頃には南部の“綿花王国”は衰退し、大量の小作人、労働者が農場を後にし、都市に流れ込むことになったのである。
 離農をさらに加速したのは、戦後に始まる綿花栽培の技術革新、つまり機械化・化学化だった。1945年コットン・ハーヴェスター(綿摘み機)が開発される。この機械は一台で労働者五百人分の作業をこなした。さらに除草剤(2,4Dなど)が開発され、人海戦術による除草作業は必要なくなった。DDT、BHCなどの合成殺虫剤も普及し始める。戦後の連邦政府の農業政策は、農業を労働集約型から資本集約型に変更させようとするものだった。こうしてアメリカ農業は大規模化・機械化・化学化をスローガンとするアグリビジネスへと革新されていく。まさに“農業革命”ともいうべき大きな地殻変動だった。

*差別とテクノロジー*

 農耕という人間の営みは、採集・狩猟のようにあるがままの自然に依拠するのではなく、人間が自然に働きかけ、手を入れることによってより豊かな果実を得ようとするものだ。しかし自然の手入れには、多くのエネルギーが必要である。農耕の発見以来、人間の歴史は農耕に投下するエネルギーをどのように調達するのか、つまり、農耕を誰が負担するのか、あるいは何に負担させるのかという課題を背負い込むことになった。農耕が始まったばかりの頃は、ほとんどすべての人がそれに従事していたと想像できる。しかし時代が下るにつれ、ある特定の人間に委託する、あるいは「強制する」システムができ上がっていく。農耕を発見した人間は、たちまちそれが人間にとり“苦役”であることを悟ったのだ(注2)。「農奴」、「農民」、「農業労働者」など、その時代、その地域により言い方は異なっていたが、特定の人間を土地に縛り付け、彼らの投下するエネルギーにより生産物を得、その生産物を働き手以外の人間に分配する「収奪」のシステムがこうして作り上げられていった。「収奪」、つまり「奴隷労働の組織化」のシステムとして「権力」が、やがて「国家」と呼ばれるものが生まれる。
 合衆国南部の“綿花王国”での「奴隷」の存在は、農耕が強制された労働であるという一つの典型だ。しかしこの「奴隷制度」はまもなく破綻した。「奴隷」は解放されるべきものというのが、人間社会の新しい原理となったからである。しかし奴隷を“解放”した新しい社会もまた、農耕のためのエネルギーを誰が(何が)負担するのかという問題にただちに直面することになった。その答えが「機械」だった。「奴隷」つまり「差別」に依存した農業は、「機械」つまり「テクノロジー」に依存する農業へと革新されたのである。
 「機械」が農耕を担えば、人が直接大地に働きかけることはなくなる。人はようやく“苦役”から解放されたのだ。しかしこの革新により、すべての問題が解決された訳ではなかった。機械は「化石燃料」で動く。地下に潜む化石燃料は無限には存在しない。石油が枯渇すれば「機械」はコトとも動かなくなる。その石油の枯渇はいずれやってくる。
 「差別」することなしに、しかも「テクノロジー」に依存せず、永続性のある農耕は、果たして可能か。現代という時代に解かれるべき最重要課題の一つが、ここに登場する。

*クロスオーヴァー*
 
 20世紀半ばの農業革命により、合衆国南部の農村はすっかり様変わりした。人影が消え、その代わり大型機械がうなりを挙げ、辺りは動力噴霧される農業用薬剤の臭いが立ち込めた。
 都市も変わらざるを得なかった。農村部からの大量の人間の流入により、仕事、住宅、教育などの需要がにわかに上昇した。それらの供給が滞れば深刻な都市問題が発生する。しかも流入してきたのは“田舎者”だった。彼等は“たちまち家や庭を田舎風に変え、粗野な態度をあらわに”(注3)暮らし始める。それら“異分子”の存在は都市住民との間に様々な軋轢を生じたが、一方でそのことにより旧来の都市文化と農村文化とがクロスオーヴァー(融合)し、新たな都市文化を生むチャンスにもなった。
 19世紀から20世紀にかけて、合衆国南部で栽培された綿花は、主にイギリスに輸出された。先進国イギリスでは既に18世紀半ばには、この綿紡績をテコに産業革命が始まっていたのである。一方後進国ドイツでは、産業革命は遅れて19世紀後半に興る。これ以来、農村から都市への人口移動が本格化する。農村では農地や庭に囲まれて暮らしていた人々が、工場労働者として都市にやってきて狭いアパートに閉じ込められる。そこには子どもの遊び場も、野菜を栽培する空間もなかった。そこで人々は自然発生的に空き地を占拠し、野菜の栽培を始める。この活動が現在ドイツ全土に普及する市民農園「クラインガルテン」の一つの源流となった(注4)。同じことが日本でも起こった。日本における農村から都市への人口移動は、20世紀後半、1960年代から70年代がピークだった。合衆国からやや遅れ、日本ではこの時に激しい“農村革命”が起こったのである。70年代初頭、大都市周辺に「市民農園」が次々と開設される。それは都市に移り住んだ“離農者”たちのゲリラ的活動がきっかけになった(注5)。“離農者”による農村文化の注入は、農的機能を喪失しつつあった都市を“農のある都市”として蘇らせる契機となったのである。

*ザッツ・オールライト・ママ*
 
 1954年7月のある日、メンフィス市内のサン・レコードのスタジオで一人の少年がレコーディングに臨んでいた。この時のこの少年のパーフォーマンスが大衆音楽の歴史に一大革命を引き起こす。この少年こそ19歳に成長したエルヴィスだった。
 サン・レコードは黒人専用の小さなレコード会社だった。主宰するサム・フィリップスは若い白人だったが黒人音楽に深く傾倒し、才能があるけれど白人社会から差別された黒人アーティストに録音の機会を与えようと仕事を続けていた。黒人歌手の歌うブルーズを聞くうちに、黒人と同じように歌うことができる白人歌手が現れれば、黒人の音楽が白人の若者たちにより強くアピールし、音楽が、そして社会全体が大きく変わっていくに違いないと、彼は予感していた。当時の白人社会では、黒人の音楽は“レース・ミュージック”と差別され、白人がおおっぴらに聴くことはタブーとされていた。その彼が目をつけたのがスタジオに何度が出入りしていた、内気で少し憂いに満ちたエルヴィス少年だった。彼はいつもおんぼろの子ども用のギターを大事そうに携えていた。彼には何かをしでかしそうなある種の可能性が秘められていると、サムは感じていた。
 この日、エルヴィスが挑戦していたのは、黒人歌手アーサー・クルーダップの“ザッツ・オーライト・ママ”という古いブルーズだった。サムの「自然に、単純に!」という声に応えレコーディングが進むうちに、初め怯えていたエルヴィスも徐々に解放され、歌声は自信に満ちてくる。やがて彼の肉体からは誰もがとてもやれそうもないようなリズムが弾け始めた。それはもはや黒人のブルーズでも白人のカントリーでもなく、これまで聴いたことのない音楽だった。人間の魂を直接ロックし、ロールするようなエネルギーに満ちていた。この瞬間、ロックンロールという新しい大衆音楽が誕生した、と歴史家は述べる。幼い頃から耳にし、彼の血肉となったゴスペル、ブルーズ、カントリー、ブルーグラスといった様々なジャンルの音楽(これらは現在ルーツ・ミュージックと呼ばれている)が彼の肉体の中で融合され、それが奔出したのがロックンロールだった。
 その日の夜、出来上がったばかりのこのレコードは地元のラジオ局でかけられた。たちまち何十通という電話がかかり、レコードは何十回と繰り返しかけられた。地元の若者から圧倒的な支持を得たエルヴィスは、56年、「ハートブレーク・ホテル」でメジャーデビューする。おとなしく礼儀正しいカントリー・ボーイはこうしてたちまちのうちに全米、そして全世界の若者のアイドルとなった。
 “ザ・キング・オブ・ロックンロール”と敬意を表せられる一方で、エルヴィス・プレスリーのロックンロールには黒人音楽の剽窃との評価がたえずつきまとってきた。しかし彼の生涯を知れば、それが単なる言いがかりにすぎないことが分かる。テゥーペロウでもメンフィスでも、道路の向こう側は黒人街という場所で彼は育った。彼は確かに黒人共同体には属していなかったが、たえず“それを空気のように吸収”(注6)していた。エルヴィスは黒人の隣人として生まれ、育ったのである。彼は黒人音楽を模倣してロックンロールを体現したのではなく、自らの感性を素直に表現したら、それがロックンロールだったというのが真実なのである。
 2002年出版された『エルヴィスが社会を動かした』(参考文献③)は、そのことを多くの資料を駆使して実証している。著者は、歴史を動かす主体として人種より階級を重視するアメリカ南部出身の若い歴史学者である。ある人間に形成されていく音楽性は人種よりも階級、そして時代性に強く規制される。50年代の黒人と(プレスリー一家のような)プア・ホワイトとは同じ貧民階級に属する。だからエルヴィスが、まるで黒人のように歌ったのは、極めて自然なことであったと述べる。そしてエルヴィスの魂に育まれた南部人としての“自然性”が、偏見に囚われないポジティヴな黒人(文化)理解を生み出し、そのような彼の存在が白人と黒人との間の人種的融和・和解のシンボルとなったと、この本は結論付ける。
 エルヴィスの音楽を聴くと、それが抑えようもない“野性”の衝動であることを感ずる。彼の肉体の中では“大地のリズム”(注7)ともいうべきものがたえず打ち響いていたに違いない。彼は大地の子、まさにカントリー・ボーイであった。その激しいリズムが都市のテクノロジー(電気楽器、レコード、ラジオ、ジュークボックスなど)と結合し、彼のロックンロールが生まれた。彼の音楽は黒人文化と白人文化のクロスオーヴァーだったが、同時に農村文化と都市文化のクロスオーヴァーでもあった。

*グレースランド*
 
 若いエルヴィスは、都市に適応し、そこで成り上がっていく強烈な上昇志向を漲らせていた。しかし母グラディスは都市生活には馴染めず、田舎に戻りたいと願っていた。息子が成功し、途方もない金を稼ぐようになっても、彼女は慎ましい生活を続けた。
 57年エルヴィスは、メンフィス中心街から8マイル(約13キロ)程離れた地に立つ古いコロニアル風の邸宅を購入し、両親と共に移り住む。この家は元の所有者の名に因み“グレースランド(Graceland)”と呼ばれていた。18の部屋と、18と4分の1エーカー(約7ヘクタール)の庭を備えたこの家の価格は10万2千5百ドルだった。エルヴィスは庭に水泳プールを設え、正面には五線譜をモチーフにした門扉を作らせた。母親にはメンフィス随一の美しい寝室を準備することが彼の夢だったが、彼自身のためには8フィート(約2.4メートル)四方のベッドを購入した。
 グラディスはその家が大きすぎて気に入らなかった。しかしそれを息子に言い出すことはできなかった。彼女が息子に頼んだのは、裏庭に豚の囲いと鶏小屋、菜園を設けることだった。彼女はツアーに行ったきり帰ってこない息子の身に何かが起きることをいつも恐れていた。帰ってきたら息子のために庭で採れた野菜を食べさせたいと思っていた。けれどもグレースランドに引越した翌年の夏、グラディスは亡くなる。心臓マヒだった。彼女は46年の人生を“田舎者”として生き抜いた。

 エルヴィス自身が亡くなってから既に30年以上の月日が経つ。彼が生涯暮らすことになり、今はそこに眠るグレースランドには、今でも毎年世界中から60万人を超える人々が訪れるという。ここはエルヴィスを敬愛する人々、音楽を愛する人々、そして人類の融和と和解を願う人々の“聖地”となっている。

参考文献;
① ジェームス・M・バーダマン著/森本豊富訳『アメリカ南部 大国の内なる異郷』(1995年・講談社新書)
② ピーター・ギュラルニック著/三井 徹訳『エルヴィス登場!!』(1997年・ユーリーグ)
③ マイケル・T・バートランド著/前田絢子訳『エルヴィスが社会を動かした』(2002年・青土社)
④ ヒート・ダニエル著/前田絢子訳『失われた革命 1950年代のアメリカ南部』(2005年・青土社)
⑤ 前田絢子著『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』(2007年・角川選書)
⑥ ヒーター・グラルニック著/三井 徹訳『エルヴィス伝 復活後の軌跡1958ー1977』(2007年・みすず書房)

注;
(1) 参考文献⑤より引用
(2) 「社説」2007年7月号参照
(3) 参考文献④より引用
(4) 詳しくは拙稿「パラサイトからの脱却ー世界の都市農業」(『ビオシティ』20号・2001年)参照
(5) 「社説」2009年4月号参照
(6) 参考文献②より引用
(7) 参考文献④より引用

付録;
(某音楽雑誌に投稿→不採用だったものを以下掲載する)

「エルヴィスと政治家の責任」

 明峯哲夫

 2006年6月。小泉首相(以下敬称略)は在任期間最後の訪米で、念願のグレースランドを訪れた。“盟友”ブッシュ大統領(以下敬称略)夫妻と共にである。邸内で小泉はエルヴィスの持ち歌を身振り・手振りを交え上機嫌で歌ったという。この“はしゃぎぶり”はすぐに日本国内にも報道されたが、あまり評判は良くない。というより顰蹙を買っている。曰く、“国民の血税を使い遊び呆けている”、“ミーハー小泉には(ミーハー)プレスリーが良く似合う”等々。
 この“事件”について、エルヴィス・ファンとして明確な見解を表する必要がある。小泉と一緒になってはしゃいでいる場合ではないのである。そこで私の見解を示す。それは以下の通りである。
 私は、小泉が首相としての公式訪問の一環としてグレースランドを訪れたことを非難しない。熱狂的なエルヴィス・ファンを自称する彼がそこで思わず“はしゃいで”しまったことも非難しない。しかし私は、彼がこのグレースランド訪問について、自国の人々に(そして全世界に)政治家としての明確なメッセージを発しなかったことを強く非難したい。一貫して彼はエルヴィス・ファンとしての個人的姿勢を崩さず、政治家としてなぜ今、そこを訪れなければならなかったかについて黙り通した(この首相のこのような態度は、彼が“靖国詣”を“個人的心情”として強行しようとする中にも伺えるが、このことについてはここでは触れない)。


 世界的にはともあれ、少なくとも日本の社会においては、エルヴィスと彼の音楽はこれまで(そして現在も)二重の偏見にさらされてきた。第一には彼の音楽が象徴する大衆文化に対する偏見である。
 昨秋、ブッシュが訪日したとき、小泉は大統領夫妻を京都に招いた。紅葉が美しい京都に“遊び”、“日本文化の真髄”を満喫する大統領の姿にはさしたる批判は起きなかった。一方小泉は今回の訪米後、中東訪問の旅に出たが、イスラエルではホロコースト記念館を訪ねた。このことについても非難はない。もっともこの時小泉は、“このような悲劇は二度と許されない”という主旨のメッセージ(感想?)を発しているが。一国の政治的指導者が公式の旅先で、その国の古い都市で遊んだり、歴史的過去を学ぶ姿は非難されず、今回のようにグレースランドを訪れることはなぜ顰蹙を買うのか。グレースランドに象徴される大衆文化に対する偏見がここにはないか。
 次にエルヴィスの音楽そのものへの偏見である。もし首相が訪ねた先が、人間の精神性や社会性を直裁に表現する“芸術性豊かな”音楽家(例えばビートルズのような?)に関わる場所であれば、どうだったであろう。
 日本の社会においては、エルヴィスの歌う歌詞は、“ホレタハレタ”ばかりで要するに“ミーハー”の音楽であるとされている。このような見下しは、音楽の価値を、語られる言葉の表面だけに見出そうとする頭でっかちな偏見にほかならない。言葉の世界を遥かに越え、聴く人の存在の全体を揺るがす(まさにロックし、ロールさせる)のがエルヴィスの音楽の凄さであることに、つまり音楽とはそういうものであることに気づいていない。


 小泉はグレースランドで黙することにより、貴重なチャンスを失した。なぜ彼は発言しなかったのだろう。エルヴィスが人種差別を遥かに越えた悠々たる存在であったことを。そして、現在の抗争渦巻く世界の中で彼の融和の精神こそが再認識されるべきことを。彼は何も語らないことにより政治家としての責任を放棄した。そして同時に、真のエルヴィス・ファンであることを宣言するチャンスも逃したのである。レイム・ダックと化した日本国首相と共に、こうしてまたも戯画化が繰り返されるエルヴィスの悲劇。それに胸を痛めるのは私一人だけではあるまい。(060716記)