2010年09月号・社説 →e-mail

農の技術(わざ)を物語る
〜『有機農業の技術と考え方』出版に寄せて
明峯哲夫(農業生物学研究室/庭協会準備室)

 

分からないことだらけの世界〜農の現場
 
 農業は人の営みである。人の生き方は多様だ。だから農の在り方もまた多様である。耕作者によって農に託す思いは様々だ。収量や生産物の商品性を優先する考えからは、化学肥料や農薬に頼る農法が魅力的に見える。一方生産の安全性や持続性を優先すれば、それらの使用を控える農法が必要となる。すべての思いを完璧に満足させる農法はない。農業技術に限らず技術には、それを成立させる枠組み(パラダイム)がある。枠組みが変われば、その技術はたちまち意味を失う。その枠組みを設定するのは人間である。人はそれにふさわしい農法を求め、その農法はそれにふさわしい人を求める(注1)。
 農業は自然を相手にする。自然を形作る要素は大気、水、土壌、生物相など複雑を極め、しかもそれらの状態は時々刻々変わる。だから農法は地域によって異なる。同じ地域でも畑一枚一枚みな条件が違う。今年うまくいったからといって、来年うまくいくとは限らない。耕す人にとって畑での一瞬一瞬は、常に新しい体験だ。しかし耕作者は日々の絶え間ない繰り返しの中から、ある真実に近付いていくことができる。
 全体としてそれなりにうまくいき、それなりに納得できる。このような実感を得た時、人はその土地に応じたその人なりの農法を獲得したといってよい。しかしこの時、農法を形づくる一つ一つの事柄について、なぜそうするとうまくいくのか、あるいはいかないのかは、必ずしも分かっているわけではない。それを理解し、説明するには事柄があまりに複雑すぎる。農の現場は分からないことだらけの世界なのである。そこは人に自らが明晰であるという自信を与えてはくれないが、その代わり人に実感や納得といった確かな手応えを恵んでくれる。
 畑に佇む耕作者の姿は、患者を前にした臨床医によく似ている。患者は唯一の存在だから、対照実験はできない。患者は一人として同じではない。人体は小宇宙。その存在は複雑極まりない。今眼前で苦しむ一人の患者をどのように救えるのか。こうして続く日々の模索の中から、医師は確率的に真実に近付いていく。しかしこのように“科学”というには余りに頼りない医療でも、人の命を救うことはできる。それは結局医療が人の自然治癒力に依存しているからだ。人は自らを癒すことができる。それと同様、一見頼りない農法でもそれなりにうまくいくのは、それが作物や家畜や土がそもそも秘めている自立性に依存しているからである。生物や土は自ら生き続けることができる。
 農を巡る分からないことだらけの世界を、すべて了解しうる明晰な世界へと変革することを試みてきたのが、現代農業である。現代農業は、作物や家畜を取り巻く環境を徹底して人工制御する。そのためには莫大なエネルギーや資材の投下も厭わない。こうして“思いがけないことが起きない世界”が構築できれば、その中では誰でも、どこでも、いつでも、容易に作物や家畜を育てられるはずと考えた。画一化した現代農業では、農法は不要となった。
 しかしその現代農業の目論みが一瞬の夢だったことは、既に証明されている。実際には思いがけないことが次々と起きたのである。人工環境への閉じ込めは作物や家畜から生命力を奪い、彼らを薬漬けでなければ生きられなくした。化学物質を浴びせられ続けた土は疲弊し、まもなく生き物を育てる力を失った。世界を理解し予測し尽くす程、人は明晰ではなかったのだ。おまけに現代農業は耕作者から手応えも奪った。手とその延長である道具を駆使する手作業を通じて、人は手応えを得る。しかし大型機械と化学物質を駆使する現代農業は、人からその手作業を奪った。

知れば知るほど分からなくなる世界〜科学の現場

 農を構成する各要素について、植物学、動物学、土壌学、気象学などの科学はそれらを良く知ろうと目論む。植物学や動物学は、それぞれさらに生理学、生態学、病理学、遺伝学など様々な方法論に分かれる。科学という営みは、複雑な対象物を要素に分け、各要素の振る舞いから全体を認識しようとする。しかしこの還元的方法は際限がない。各要素の振る舞いを知るためには、その各要素を構成するさらに下部の要素を調べなければならないからだ。そしてさらに・・・。こうして永遠の迷路にはまり込む。いつしか科学者はそもそも何について明らかにしようとしていたかを忘却するか、忘却しないとしてもそこまで立ち戻れなくなっている自分を発見する。局部的な素反応については誰かが分かるとしても、全体については誰も分からない。知れば知るほど分からなくなる世界、それが科学の現場である。人は農の現場では、一本一本の木については正確には分からないとしても、森全体がどのような姿をしているかは大まかには実感できる。しかし人は科学の現場では、一本一本の木を知ろうとするうちに、森全体の姿を見失っていく。
 「極小の細胞核に潜むDNA分子を研究する“生物学者"が手に触れるのはガラス製の管であり、目を刺激するのはコンピューターの画面から漏れる光であり、鼻を刺激するのは薬品のにおいである。彼の官能には、彼が知ろうとしている生物の片鱗も引っ掛からない。世界中の研究室で生み出される膨大な情報を学会誌で読み、学会発表の場で聞く。一人の研究者がもつ情報は、ほとんどこうして与えられたものだ。自分自身で生み出したほんのわずかな情報も、直接自らの手触りで発見したとは言いがたい。さまざまな分析機器を駆使して、その先にようやくほの見えたものにすぎない。実感からははるかに遠いものだ」(注2)。大型機械を駆使する現代の農民のように、現代の科学者もまたこうして手応えを失っていく。
 科学は総合化の回路をもたない。それは科学以外の営みに求めるほかない。それはおそらく教育、あるいは啓蒙という行為だ。初学者に物語ることにより、科学者自身が自らの原点を再発見していく。しかし現代の科学者の多くは物語らない。そのような資質を育てられていないからである。
 科学者が開発した農業技術の多くは、最終的には薬物や種苗などの資材として現場への普及が目論まれる。技術は売られ、買われていく。しかしこれらの技術の多くは農の現場にはなじみにくい。誰でも、どこでも、いつでもできるものとして喧伝された技術は、誰にとっても、どこにとってもある種の”不都合”がつきまとうからだ。科学者が農の現場に果たしうる本当の役割を考え出さなければならない。

農の技術(わざ)を物語る

 理論化とは、明瞭に言葉として表現できなかったものを、言語化することだ。言語化した瞬間、言語化されなかったものは換骨奪胎される危険性がある。しかし言語を発見した人間は、言葉や文字に表現することにより、社会の片隅に沈潜している様々な事柄を共通の理解、つまり文化として確認し合う道をたどってきた。
 農の現場で発見される農法は、その全貌を言語化することは難しい。それは耕作者により明晰に理解されたものとは限らず、多くは実感されたものだからだ。言葉で伝達されうるものを技術と考えれば、農法は技能とも呼ばれるべきものだろう。しかし無数の現場で発見された無数の農法が、ある共通の理解へまとめ上げることができれば、それらは技術として伝達可能なものになる。それは個々の農法をさらに磨きあげるのに大きな役割を果たすに違いない。そしてそれは一方で一般の人々の農の理解を助ける役割もする。そのためには農法の理論化、つまり言語化が必要になる。
 様々な農法の収集。それを比較し、各カテゴリー(範疇)に整理する。これらの仕事は多くの人々の力で、組織的に行われなければならない。相応の資金も必要だ。農法を体現する現場の耕作者の参加は何よりも欠かせないが、科学者や研究者などの参加も必要になる。
 科学者や研究者に対し、農の現場から求められている本当の役割はこうだ(注3)。一つは「結果の解析と説明」である。農業の現場では、医療の現場と同様に対照実験は難しい。研究室、あるいは研究圃場での追試は、現場で得られた結果の裏付けを取れる。また解析的な実験で、その結果をもたらす因果律を明らかにすることができる。これらにより耕作者は実感の世界から理解の世界に導かれる。二つ目は「冒険的試み」である。農の現場では失敗覚悟の新しい挑戦は難しい。大学の研究圃場などでの大胆な実験的な試みが大いに期待されている。これらの仕事は、スペシャリストとしての専門家の役割である。彼らは農の世界に通暁していなければこの役割を果たせない。農の現場は、彼らを研究の原点へとリセットする絶好の場を提供するに違いない。
 理論は、言語化・カテゴリー化によって整理されるものだ。その理論は一つの物語として紡がれることが望ましい。物語は単なるエピソードの羅列ではない。途切れることのない一本の筋がある。その筋に物語の読み手・聞き手は魅せられる。理論化=物語化の仕事で、エピソードを紡ぎ出す作業では、ジェネラリストとしての専門家が大切な役割を果たすに違いない。
 農は生命を紡ぐ仕事である。多種多様な作物、家畜。土の中に蠢く微小生物たち。畑に忍び入る数々の雑草、昆虫たち・・・。彼らはすべて農の“正規メンバー”である(注4)。これらの生命がそろって、健全な農の世界が成立する。一方農は様々な空間を紡ぐ。川、水路、水田、畑地、林地、草地、庭地・・・。これらの空間を繋ぎ、活かし切る。このように農の世界は、多様な生命、多様な空間からなる体系的な世界である。
 農法の理論化はこの農の体系性を表現できなければならない。物語られる筋は、多様な生命、多様な空間を紡ぐものでなければならない。
 
一つの出発

 農の主役はいつも、その土地を耕し続ける耕作者である。だから農法は無数編み出される。その農法を紡いだ物語も絶えず書き換えられていくものだ。唯一絶対の農法がないように、唯一絶対の物語もない。
 この夏、一冊の本が上梓された。『有機農業の技術と考え方』(中島紀一・金子美登・西村和雄編著・コモンズ・2010年)である。私自身も筆者の一人として参加したこの本が、物語を紡ぐ一つの出発になっているかどうか。それが読者により問われることになる。

注;
(1) 拙稿「農法と人間」(『講座 農を生きる3“土”に生命を 農法と農民』長須祥行編・三一書房・1975年)参照
(2) 拙稿「市民が耕す担い手だ」(『街人たちの楽農宣言』明峯哲夫・石田周一編著・コモンズ・1966年)より引用
(3) 拙稿「農学論の革新―有機農業推進の立場からー」(『有機農業研究』第2巻第1号・2010年)参照
(4) 拙稿「“雑草”“病虫害”とどうつきあうか」(『有機農業の技術と考え方』(中島紀一・金子美登・西村和雄編・コモンズ・2010年)参照

コモンズ
http://www.commonsonline.co.jp/