2011年01月号・社説 →e-mail

Agriculture Supported Community     
明峯哲夫(農業生物学研究室/NPO・有機農業技術会議)

 

(1)産消提携


 Community Supported Agriculture (CSA・地域支援型農業)は、農家が消費者と合意した作付計画・栽培方法により生産した農産物を、年間の契約金を先払いした消費者が受け取る方式だ。これは流通マージンのカットを目的とする産直方式とは異なり、消費者が農産物の再生産、ひいては生産者の生活を保障するというものである。このCSAが今欧米で広がり、その源流は1970年代の日本の産消提携運動にあるという(「朝日新聞」夕刊 2010年11月22日~26日付 「おいしく支える」)。
 有機農産物は市場外流通が原則だ。一般の市場では有機農産物独自の価値は斟酌されない。価格は農産物の生産コストとは無関係につけられ、また変動が激しい。商品性(見た目)を優先する煩雑な農産物規格制度は、収穫物の全量出荷を妨げ農産物のムダを生む。有機農家は有機農業を理解し、支援を惜しまない消費者を独自に組織し、彼らに直接農産物を届けることが不可欠となる。こうして1970年代初め、日本の有機農業運動は”産消提携運動”としてスタートした(注1)。
 産消提携運動では、農家はできるだけ多種類の農産物を手掛けなければならない。農家の自給の延長に消費者の食卓が存在する(注2)。収穫物の配送は生産者本人が行う。消費者はしばしば農家を訪れ、農作業を手伝う。このような直接的な交流を通じて提携はより強固になる。消費者による”援農”は、実際には農作業の邪魔にもなりかねない。しかし”援農”は消費者の農業理解の向上に大いに役立つ。熱心に通ううちに腕をあげ、やがて本格的に就農する消費者も生まれる。
  筆者の1990年代のドイツでの見聞によれば、有機農産物は専ら市中の自然食品店などで売られ、農家が直接消費者集団を組織化する例はほとんどみられなかった。農家と消費者の密接な関係は、確かに日本の有機農業運動が編み出した独自のスタイルのようだ(注3)。
 70年代の有機農業運動を支えた論客の一人に、岡田米雄(1914年生まれ)がいる(注4)。中学校の教師だった岡田は農業の現場に転身、大規模な草地酪農経営を実践する。その後”本ものの農業”を支える消費者を育てようと、東京を中心に啓蒙・オルグ活動に専心した。岡田は生産者と消費者との直結を説いた。消費者は生産者に自らの食糧の生産を委託し、”本ものの農業”により”本ものの農産物”を生産してもらう。そのために消費者は生産者に生産資金を準備する。岡田は、消費者は口だけでなく、金(かね)も出さなければならないことを強調した。彼はこの方式を「消費者自給農場」と呼んだ。農産物の再生産を保障する産消提携運動は岡田の考えに近い。しかしこの消費者自給農場論を文字通りストレートに実践したのが、「たまごの会」の運動だった(注5)。
 首都圏の消費者約300世帯が資金を出し合い、茨城県に「自給農場」を建設したのは1974年の春。この農場の経営者は会員の消費者だ。生産内容を含めすべてのことを会員同士で決める。会員の代表として農場に住み込み直接生産を担当するスタッフは「専住者」と呼ばれ(筆者はその一人だった)、彼らを中心に有畜複合農業が営まれた。会員たちは週末を中心に農場にやってきて様々な仕事を分担する。週2回のトラックによる農産物配送は主に消費者会員が担った。活動に必要な経費はすべて会員同士が負担し合い、収穫物は全量会員の元に届けられる。ここでは消費者は生産現場に口、金、そして手も出す。「自ら作り、運び、食べる」をスローガンとしたこの運動は、明らかにCSAの(しかも徹底した)先駆けの一つだった。

(2)地産地消


 朝日新聞で紹介された米国やフランスでのCSAの事例は、いずれも生産者と消費者との距離が遠い。米国の事例では生産者は消費者の隣の州に住んでいる。またフランスの事例では生産者は消費者の住む町までバンで2時間ほどかけてやってくる。生産者と消費者が属するコミュニティは異なる。
 農村には消費者は少ない。しかしそこには消費量をはるかに凌駕する農業生産がある。そこで有機農家は自分のコミュニティ外の、距離的に離れた都市の消費者を提携相手とせざるをえない。このような理由からCSAの多くは地産地消ではなくなる。それは都市と農村の提携だ。この辺りの事情は日本の産消提携の多くや、前述したたまごの会の場合も同じである。
 東京などの大都市にも農家はいる。都市農家は自分の畑で野菜や果物などを直販している。購入者は近隣に住む消費者である。客の多くはリピーター(お得意様)で、農家とは一定の信頼関係が成立している。栽培方法や作付計画について相互が正式に契約することはないとしても、それらについては一定の相互了解がある。消費者が生産物を農家の言い値で買い支えているとすれば、この関係は一種のCSAと言って良い。しかも生産者、消費者は同じコミュニティの一員だ。地産地消である。
農村部でも地域内でCSA、つまり地産地消が成り立たない訳ではない。例えば地域の学校、公共施設、病院、福祉施設などの給食の素材を、地域の農家が契約して提供する場合などである(注6)。
 農業が周囲の地域に支えられるCommunity Supported Agricultureが成立すれば、地域は農業に支えられることになる。Agricuture Supported Communityである。

(3)Agriculture Supported Community


 日本の産消提携運動に参加する生産者の多くは平場の農家である。平場は農業の生産性が高く、消費者(都市)を支える力量がある。一方中山間地の小さな村の農業には、消費者を支える力はあったとしてもごくわずかだ。都市部との提携運動は難しい。このような地域での農業の役割は何なのだろうか。それは他でもない、村のくらしを支えるという役割である。村人のくらしが自らの農業によって支えられる。中山間地は典型的なAgriculture Supported Community(自給する村)である。
 筆者が調査のために通う新潟県長岡市山古志地区(旧山古志村)はそんな村の一つだ(注7)。
 零細な農地しか持たぬこの村の農家は、ほとんどが自給農家である。収入のほとんどを年金や他産業に依存している。このように村の農業は現金収入を得る力を失っている。しかし人々の日々のくらしは、依然として農業により支えられている。
 村人の多くは自分の食べる米や野菜を自給している。人々にとり畑仕事は生きることそのものだ。歳をとっても畑では現役である。狭い村内に小さな直販所が多数点在する(注8)。そこでは自分で食べ切れない農産物を並べる。自ら調理・加工したものも少なくない。山菜や野菜の漬物、カラシナンバン味噌、ヤーコン茶、果実酒(グミ・アケビ・・・)、焼きおにぎり、コロッケ・・・。村人は自分の作っていない農産物をここで賄う。春先の山菜や地域特産の野菜をあてに、村外からも客が来る。こうして村の収穫物はささやかな収入を生む。直販所はまるで村のカフェ。道行く村人たちが立ち寄り、お茶を飲みながら世間話に花が咲く。いつものように出かけてこない一人暮らしの高齢者がいれば、安否を確認する。直販所は村の福祉も支えている。村の女たち(特に中高年)は元気で良く働く。家事、畑仕事(自分の畑だけでなく、仲間との共同耕作の畑も)、農産加工、民宿、直販、そして孫の遊び相手と、一人何役もこなすかあちゃんがいる。彼女はたくさんの生きがいに恵まれている。
 村には小さな棚田が幾重にも広がる。庭や道端には季節の花が咲き乱れる。そんな村の美しい景観は、土を愛し、農を生きる村人たちが紡ぎ出したものである。この景観に誰にもまして愛着を感じ、深い安息感を抱いているのは、他でもない村人自身である。零細な自給農業であっても、このように人々のくらしを、そして村を支えることはできるのである。
 この村でもかつては農業が現金収入をもたらした。戦前から戦後まもなくまでは、山の斜面に桑畑が広がり養蚕が盛んだった。ここはコシヒカリの産地でもある。村から供出する米は戦前は2万俵、昭和30年代でも1万俵を超えた。大豆や小豆の栽培、山の雑木を利用した炭焼きも行われた。タバコ、ワタ、ナタネ、チャ、アイ、ウルシなど様々な工芸作物も手掛けられた。しかしこれらの現金を生む農業はことごとく衰退していった。しかしそれはけして村人たちの意思によってではない。社会的・政策的に仕組まれた結果なのである。
 戦後の安価な外国産生糸の輸入は国内の養蚕業を壊滅させた。大量の石油輸入による燃料革命により、木炭の需要はなくなった。国内での麦・豆作を解体し、安い外国産の穀物に依存したのも政府の政策によるものだった。そして今、米余りによる低米価は米生産の意欲を奪っている。中山間地の農業を衰退させたのは、戦後の経済効率一辺倒の食糧・エネルギー政策だった。
ささやかな収入を農業に求めていた山古志の村人たちは、こうして産業としての農業を奪い取られた。そのあと農業はただの農、つまり自らのくらしを支える素朴な自給的営みとして残ったのである。

(4)農の力


 農業は何よりも、耕作者自身のくらしを支える営みである。そして農業はまた地域の自然(農業的自然)や文化を形成し、それを持続させる営みでもある。そしてその余剰の生産力は都市を支える力となる。
 農の力は、都市でもその本領を発揮できる。自給する力を失い、他者や他所に依存し延命を図る都市。そんな都市を自立させるのも農の力だ(注9)。都市はAgriculture Supported Community(農のあるまち)として、生まれ変わることができるのである。

 2004年10月23日夕刻の中越地震。山古志村は壊滅した。しかし仮設住宅で行われた帰村式(注10)から既に3年の月日が経ち、村には再び人々のくらしがある。そんな村人たちの最近の証言を二つ(注11)。

 「地震で自宅は半壊。喪失感が強かった。仮設くらしの中では、何をする気にもならなかった。2年目の夏、身体を壊し入院した。とても辛かった。無理をしたくなかった。ゆっくりと生きていきたいと思った。勤めていた仕事をこの時辞めようと決意した。55歳の時だった。これからは太陽と共に生きていこうと思った」
(村内で仲間と農家レストランを営む女性)

 「私の現在の生活は、最高の贅沢をしている。村の景観は美しく、食べものも空気も旨い。宮本常一の言う”人間の手が加わった自然”を満喫している。村を出た人が帰ってきたいと思う地、それが山古志だと思う」(80歳代の男性)

 再生そして充足・・・。Agriculture Supported Communuty(自給する村)が人に与える恵みは、大きく、深い。

注;
(1) 『有機農業運動と<提携>のネットワーク』(桝潟俊子著・新曜社・2008年)参照
(2) この思想は70年代産消提携運動が生みだした特筆すべきものの一つである。
(3) 『Ein japanischer Don Quichote auf Deutschlandtour Texte zu Landwirtschaft, Selbstversorgung und Regionalisierung』(Akemine Tetsuo/Richard Pestemer・ if SF e.V if SF e .Ⅴ Trier、Germany・1998)参照
(4) 岡田米雄の著書は以下のものがある。
  『私の農村日記 新しい共同経営の試み』(筑摩書房・1964年)
  『農民志願』(現代評論社・1969年)
  『卵と牛乳 この命とりの食べもの』(啓明書房・1972年)
(5) 「たまごの会」については以下の拙稿を参照
  「ある農場からの報告」(『朝日ジャーナル』1973年9月7日号)
  「自給農場への道」(『月刊地域闘争』1974年5月号)
  「反近代化を目指す食糧自給運動」(同 1979年12月号)
(6) 愛媛県今治市での試みは参考になる。『地産地消と学校給食 有機農業と食育のまちづくり』(安井 孝著・コモンズ・2010年)参照
(7) 旧山古志村については以下の拙稿を参照
  「山古志の農業」(『福祉社会開発研究』No1・東洋大学福祉社会開発研究センター・2008年)
  「山古志の農業(第2報)」(同 No2・2009年)
  「かけがえのない村」(同 No3・2010年)
(8) 清野 隆・川澄厚志・明峯哲夫・青柳 聡・杉原由紀子「山古志における農的営みを支える農産物直売所の現状と課題」(同 No.4 ・2011年)
(9) 拙著『都市の再生と農の力』(学陽書房・1993年)参照
(10) 庭プレス・社説2007年12月号 『「仮設」の庭』参照
(11) 東洋大学福祉社会開発研究センターによるヒアリング(2010年・未発表)