2011年04月号・社説 →e-mail

「天国はいらない、故郷を与えよ
 〜原発事故と『庭』の思想」
明峯哲夫(農業生物学研究室/NPO・有機農業技術会議)

 

 恐るべきことが起きた、いや起きている。2011年3月11日。大地震、大津波、そして原発被災。日本列島に暮らす誰もが、この驚愕すべき現実にたじろいでいる。
 原発が列島中を席捲していく現実に、私はこれまで何ら抗することができなかった。それどころか、その原発が生みだす電気を享受して私のくらしがあった。原発被災という現実に自分の愚かさ、無力さに打ちひしがれている。そしてその私の中で鮮やかに蘇ってくるものがある。それは25年前のチェルノブィリ原発事故の時、周辺の避難地区からけして離れようとしなかった農民たちのエピソードである。

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 原発史上最悪の事故と言われているチェルノブィリ原発事故は、1986年4月26日深夜に起こった。場所は旧ソ連ウクライナ共和国。84年に製造されたという新鋭の4号基は定期点検のため停止中だった。その間を利用して行われた緊急停止装置の実験のさ中、突然原子炉が暴走した。その原因は操作ミスとも設計ミスとも言われている。炉心は溶融し、爆発炎上。大量の放射性物質が上空に噴き上がり、世界中に飛び散った。その量は広島型原爆の数百倍、およそ10トンといわれている。ソヴィエト政府は、上空から大量の砂や鉛、ホウ素を投下、10日後にようやく大量の放射能の放出が終わった。さらに全国から大量の労働者を動員、まだ核反応が続く原子炉を含む施設全体をコンクリートで固め、事態の収拾を図った。今も"石棺”の中で、原子の火は”燃え”続けている。
 この事故処理にあたった原発職員、60万人とも80万人ともいわれる労働者たちは、放射線に対してほとんど無防備で立ち向かったらしい。政府は、事故後1か月以内の死亡者は31人と発表したが、実際には3000人が即死、という説もある。そしてその後被曝した労働者や周辺住民のうち、ガン、白血病、小児性甲状腺ガンなどが原因で5万人を超える死者が出たと言われている。さらに何十万人という人が、被曝後遺症に悩んでいるという。被爆者全員の詳細な追跡調査は行われなかっただろうし、ガンを発症するのは被曝後10年、20年後である。それにガン発症と被曝との因果関係は誰も証明できない。被害の全貌は未だ明らかではない。
 事故後、半径30キロ以内は緊急避難地区とされ、およそ14万人の住民がその対象となった。ここは現在でも立ち入りが禁止されている。さらにその周辺は、放射能汚染の程度により、強制移住地区、自発的移住地区、放射能汚染地区などに指定された。
 放射能汚染は8000キロ離れた日本列島にも及んだ。国内でも各機関により土壌や農産物などの汚染が測定された。私は当時、東京都下で仲間たちと一緒に共同耕作を実践し、野菜のほとんど、穀物の一部を自給していた。私は自らが耕す農地を、自分の生きる拠点にすると「決意」していた。そこで収穫されるもので生きていこうと「覚悟」していた。子どもたちもそこで育つ。そんな私たちも国内の農産物汚染状況を知らされることとなった。”安全”というデータが出ても、それが信用ならないことは分かっていた。”危険”であることは証明できても、”安全”であることは証明できるはずがない。一方”危険”と言われれば、いい気分はしない。私たちは「どっちにしろ食べる」のだ。どうせ食べるのなら、いい気分で美味しく食べたい。私たちにとり農産物の汚染測定データは”迷惑”としか思えなかった。
 当時、消費者たちの多くはこれらのデータに一喜一憂していた。私は彼らの姿に強い違和感をもった。”安全”なものと”危険”なものとを「仕分け」、自らの身を守ることだけに汲々としているかのように、私の眼には映った。そうではなく、今こそ農民たちの収穫物を食べ支えることが大切ではないか。農民が自分たちの作った農産物を食べるのなら、消費者も一緒に食べるべきなのだ。この時、農民との提携運動に携わる生協や有機農産物購入グループは、自らの「覚悟」と「決意」が試されていた。「農村の自給の延長に都市の食卓がある」はずなのだから。

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 写真家本橋成一が監督したドキュメンタリー映画に『ナージャの村』(1997年制作)がある。この映画はチェルノブィリ原発の被災地、現在のベラルーシドゥヂチ村を取材したものだ。ベラルーシは原発の風下にあり被害が大きかった。もともと300家族が暮らしていたこの小さな村も、事故後強制避難の対象となった。しかし退去を拒む家族がいた。この映画はその六家族15人のその後のくらしを、淡々と描写していく。ナージャはそのうちの7人家族の末娘である。私はこの映画を観る機会がなかった。しかしその後出版された同名の写真集を目にし、強い感銘を受けた。ここに本当の人のくらしがあると。
農民の一人は語る。
 「人々はパンを食べる。わたしたちは放射能を食べる。国はとおくに去っていった。わたしたちはこの地に、踏み留まっている。もしロシアを捨て天国に生きよ、といわれたら、私はいう。天国はいらない、故郷を与えよ、と」
 そしてまた別の農民はいう。
 「暖かくなったら、仕事にとりかかろう。種を蒔こう。玉ネギ、ライ麦、キュウリ、じゃがいも。私はベラルーシ語で話すよ。暖かくなるように。この冬はうんざりだよ。暖かくなるまで待つだけだよ」
 本橋は「あとがき」でこう言っている。
 「あえて汚染地域に住み続け、自分が生きていることを自らの肉体の存在を以て証明しているのだろう。それは汚された大地への無言の抗議であり、その場に居合わせたぼくに対するメッセージだった」
 本橋は後に『アレクセイの泉』というもう一本の映画を製作し(2002年)、写真集も出版している。
 原発から180キロ離れたベラルーシ共和国(当時)ブジシチェ村も、強制避難の対象となった。人口600人のこの村でも、55人の老人たちと一人の青年、アレクセイが村に残った。
 アレクセイは言う。
 「村で生まれた者は、たとえ町に行っても、いつも村に心を寄せている。運命からも、自分からも、どこにも逃げられない。だから僕はここに残った」
 「うちの母さんはいつもこう言う。『この子たちを残して、町へいくことなんてできやしないよ』。役人がきて、村は危険だから早く引っ越しなさい、とすすめたとき、母さんは言った。『この動物たちは、木や草はどうするんだい。いっしょに連れていってもいいのかい?』。

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 私たち都市住民は「根無し草」である。存在が風土(自然)から切り離されている。食べるものも自ら耕したものではなく、世界中から来るあらゆるものを”つまみ食い”している。何かの拍子にライフラインが断たれれば、たちまち途方にくれるしかない。アレクセイの言う「逃げることのできない場」それは「故郷」ということだろうか。しかし私たちは遠く昔に「故郷」を喪失した。アレクセイはまた言う、「逃げることのできない自分」と。これは「アイデンティティ」ということだろう。私たちに「逃げることのできない自分」が確保されているか。「逃げることのできない場」があってはじめて「逃げることのできない自分」が育くまれるに違いない。
 私が「ナージャ」や「アレクセイ」に魅かれるのは、私が生まれながらの「難民」だからだろう。「難民」は「故郷に生きる人びと」に憧憬をもつしかない。
 そんな私が仲間たちと共同耕作の場を求めたのは、わたしたちなりの「帰属する場」「生きていく拠点」を求めてであった。そんな場を持たぬ私たちが、それを求めるためにはもともと故郷に生きる人たちには必要のない相応の「決意」と「覚悟」が必要になる。私たちはその場を自らの「庭」に設定したのである。「庭」とは「自分の力で生きていく拠点」である。わたしたちの「庭」は、わたしたちの「故郷」となった。
 しかし私たち都市住民は所詮”風来坊”である。私たちの共同耕作地も開発などに追い立てられ、二転、三転した。「庭」はどこにでもある。その場で最善を尽くせば、どこでもそこは「庭」になる。それが私たちの信念になった。ナージャやアレクセイたちの「故郷」は”一緒につれていけない”。しかし私たち風来坊の「故郷」は私たちと常に共にある。しかし「決意」と「覚悟」を失くし、最善を尽くさなくなった瞬間、それは消える。

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 ナージャやアレクセイの村の人々を「非合理的」と非難するのは簡単だ。放射能で汚染されていることが分かっているのに、そこを離れないのは”自殺行為”だからだ。とにかく生命(いのち)が長からんことを願う立場からは、”愚かな人々”と映るかもしれない。しかし人間の存在とは本来不合理なものだ。理屈では割り切れないのが、人間というものではないか。だから、合理主義では人間を理解することはできない、理解してはいけないと、理解することが大切だと思う。
 そして2011年。我々は今、東日本大震災に直面している。40万人もの人たちが家を失ったという。復旧、復興が急がれる。しかしその過程で合理主義が先導することを、私は強く懸念している。
 過疎の村にくらしていた人たちは、生活に便利な町に出よう。津波が押し寄せてくる平場にくらしていた人たちは、安全な高台に上がろう。放射能で汚染された土地にくらしていた人たちは、新しい土地に移転しよう。こうした「合理主義」により、また多くの人々が「故郷」を失い、「難民」としてのくらしを強いられることになりはすまいか。
 頻発する地震、津波、火山噴火、台風の襲来、そして二度の被曝。日本列島に生きる人びとはその度に立ち上がってきた。今回の未曾有の惨禍からも必ず立ち上がるに違いない。一休みした後、農民たちはまた土を耕し、種(たね)をまき始めるだろう。漁師たちは再び海に漕ぎ出し、漁(すなど)り始めるに違いない。「故郷」をもった人々は強靭だ。そして何よりも「知恵」がある。「愚か」などではけしてない。人々に必要なのは「天国」ではなく、「故郷」である。「故郷」を人々から奪ってはならない。

 「保健局のひとが放射能を測りにくると、村のひとたちはいつも、こんな風にいう。『測ると減るのかい?』」
(アレクセイのことば)

(注)
本橋成一の写真集
 『ナージャの村』(2007年)冬青社
 『アレクセイと泉』(2002年)小学館
 『アレクセイと泉のはなし』(2004年)アリス館

(本文は、2011年3月27日札幌・トンネル山で行われた「農的くらしのレッスン」における講義「農的庭学・特別編」をもとに書き下ろした)