2011年05月号・社説 →e-mail

「帰ろう、山古志へ」  
明峯哲夫(農業生物学研究室/東洋大学福祉社会開発研究センター)

 

 東日本大震災の被災者が必要とする仮設住宅は、7万2千戸にものぼる。しかも被害の広域化、複合化により、避難生活は長期にわたることが予想されている。このため仮設住宅は、暮らし易いように充分配慮したものが提供されなければならない。
 2004年新潟県中越地震で村が壊滅し、全村避難を指揮した当時の旧山古志村(現長岡市)村長長島忠美氏(現衆議院議員)は、「被災者の避難所くらしは2か月が限界、仮設住宅の建設はスピードが第一」と強調している(注1)。政府は5月末までに3万戸の建設を約束しているが、土地確保が難航し建設のペースは遅い。
 被災した町や村の再生・復興を考えると、その主人公たるべき住民たちの仮設住宅は、これまで住んでいた町や村から程近い場所に立地すること、さらにそれまでのコミュニティをできるだけ維持したものであることが望ましい。福島第一原発避難指示(現警戒)区域内の双葉町は、役場機能を含め住民の多くが埼玉県へ集団移転した。福島県内には集団で移転する場所が見当たらず、かといって住民が分散するのは避けようとの判断だった。移転先に県外を求めたのは苦渋の選択だったろう。
 充実した仮設住宅という点から、中越地震被災者への仮設建設は一つのモデルを提供している(注2)。地震発生は10月23日。被災した13市町村に、62団地3460戸の仮設住宅が建設された。11月20日から順次完成、入居が始まる。被災2か月後の12月22日には、すべての避難所が閉鎖された。集落毎に入居し、それまでのコミュニティが仮設くらしで再現された。仮設各戸の玄関は、住民が互いに相手の様子を知ることができるよう中庭を挟み向かい合わせに設えられた。デイサービス機能を併設した集会場(注3)や、お茶飲みやボランティアと交流できる談話室が設置された。車いす利用者や要介護者のいる世帯にはバリアフリー対応がなされた。商店の設置は仮設住宅の転用が難しく実現しなかったが、理髪店が出店した団地もあった(注4)。
 山古志村住民の仮設地に、「いきがい健康農園」が併設されたことは特筆される(注5)。大地と結びついてくらしてきた山古志の住民にとり、土を耕すことは生きることそのものを意味する。耕すことを制限されれば、いきがいを失う。狭い土地ながらも自ら耕し、食べものを自給できる農園の存在は、営農意欲、体力の減退を防止する効果も高い。さらにそこは、利用者相互の交流を通じてコミュニティ結束の大切さを再確認する場ともなった。今回の震災で避難生活を余儀なくされた農民たちにも、このような自給空間が是非とも提供されるべきだ。
 こうして2007年12月末、阪神大震災で問題になった震災関連死(孤独死など)を一人も出すことなくすべての仮設住宅はその役割を終えた。
 住民たちの心身がいたずらに消耗していくばかりの避難生活は、けしてあってはならない。そこからは復興の道は遠のく。被災者の力が育まれ、蓄えられ、満を持して再生への道を歩み始められるような避難生活でなければならない。再生を約束する人の力は、孤独の中では生まれない。それは人々同士の交流の中でこそ生まれる。被災コミュニティ内部の緊密な交流が維持されれば、自分は孤立していないこと、自分の人生は他者と助け合って成り立つことを人々に再認識させる。この経験は、「相互扶助の組織化」をめざす町、村の復興へと住民たちを向かわせるに違いない。さらに外部からやってきた支援者との交流も、復興に向かって大切な意味がある。彼らとの関わりから、自分たちの町、村は孤絶した存在ではなく、様々な社会的支援を受けて成り立つことを再認識できる。この経験は、住民たち一人ひとりの人格を一層恩義に厚いものに育てあげるだけでなく、復興後やってくる人間を温かく迎え入れる開かれた町づくり、村づくりへと向かわせるはずだ。避難生活は再生、復興への序奏である。

 中越地震被災時の山古志村は、人口2,181人(04年8月31日現在)、村の予算規模は一般会計、特別会計合わせて32憶7,691万円(04年度)という小さな村だった。しかもこの辺りは地盤が弱く、地滑り常襲地帯である。この過疎の高齢化した村(04年高齢化率は37.3%)を巨額の国家予算を使って復興することの是非が、この時問われた。これを機会に山を降り、安全な平場に移転したらどうか、との意見もあった。集団移転、つまり村の消滅である。長島村長はこう述べている。「私は山古志村の復興にかかる費用を、住宅や農地の再建も含めて大ざっぱに1000億円と見積もっていました。村の年間予算が25億円とか30億円だから、30年分以上です」(注6)。
 この時村長をはじめ村人たちは、重大な「決断」を求められたことになる。なぜ村に戻ろうとするのか。それにはそれだけの「意味」があるのか。その決断は、村人一人ひとりの生き方の選択であると同時に、村総意としての選択になるべきものだった。そして決断が下される。それが「帰ろう、山古志へ」だった。
 長島氏は続ける。「どうしてそこまで苦労して、この土地に住もうとするのか。つまり私たちがそこまで苦労して山古志に戻る理由を問われていたわけです。私もそれを考えました。だけどよく考えてみれば、答えはたった一つしかない。山古志が私たちの故郷(ふるさと)だからなんです」。そして「なぜ私たちはそこへ帰らなければならないのか。私たちのためだけじゃない、日本という国全体にとっても山古志のような故郷を残すことはとても大切なことなんだ」と考えるに至る。村長、そして村人たちは、こうして中山間地の小さな村の持つ大きな「公共性」を再確認することになったのである。
 被災の翌春、国、県を交えて練った「山古志村復興計画」が村議会で決定される。この計画では、山古志村は日本の中山間地の「持続的村づくり」の一つのモデルとして捉えら
れている。それを国や県も認めたのだ。こうして小さな村の住民一人ひとりの人生の選択が、日本という国全体の自らの在り方を巡る選択とつながったのである。
 人類は長い歴史の中、山間で、海辺で、台地上で、河川の氾濫原で・・・と、様々な土地土地で暮らしてきた。そしてそのことによりそれぞれの風土に適応した多様な文化を紡いできたのである。より快適な、より至便なくらしを求め、人々が大都市に集中しようとする現代は、人類文化の多様性を著しく損なうものだ。「山古志」の再生は、人間はどこでも生きていけることの一つの証明でもある。

 被災者たちが困難な避難生活を乗り切り、復興へと向かっていくためには、明確な「目標」が必要である。しかしその「目標」は国家が作るべきものではない。それはあくまでも復興の主人公である被災者の「合意」として設定されなければならない。
 東日本大震災。無数の「山古志村」が被災した。その村々に今必要なのは、「帰ろう、山古志へ」という確かな希望である。


 
注;
1. 「毎日新聞」2011年5月2日夕刊 特集「旧山古志村長がみた永田町の50日間」
2. 渡辺 斉「中越大震災からの創造的復興について~持続可能な地域再生へ向けて~」
(2009年・『平成20年度東洋大学福祉社会開発研究センター研究概要・研究プロジェクト2』所収)
内田雄造・青柳 聡「被災地における仮設市街地の計画とその有効性についてー長岡市陽光台団地の事例調査を通じてー」(2009年・同所収)
3. この事例を参考に、東日本大震災の被災者向け仮設住宅に、介護保険サービスなどを受けられる介護拠点施設を併設することを厚生労働省は決定している(「朝日新聞」2011年4月20日)
4. 岩手県宮古市田老地区の仮設住宅団地では地元の商店街がまるごと移転し、「仮設商店街」の開設を目指すという(「朝日新聞」2011年4月26日夕刊)
5. 明峯哲夫「『仮設』の庭」(「庭プレス」社説2007年12月号)
同  「山古志の農業(第2報)」(2009年・注2と同所収)
6. 長島忠美・石川拓治『国会議員村長 私、山古志から来た長島です』(2007年・小学館)