2011年08月号・社説 →e-mail

放射能汚染と有機農業
明峯哲夫(農業生物学研究室/NPO・有機農業技術会議)

 

*自然への信頼*

 現代の慣行農業は、作物(家畜)を人工制御された環境に閉じ込める閉鎖型の農業である。思いがけないことが絶えず起こる自然の渦中では作物(家畜)の成育は不安定で、高い農業生産は自然から隔離した恒常的環境ではじめて可能と考える。閉じ込めの方法は二つある。一つは、作物(家畜)をビニールハウスや無窓畜舎などの施設内部に閉じ込める方法である。これは文字通りの監禁だ。この方法は野菜栽培や畜産の分野で普及している。もう一つの方法は、化学肥料や合成農薬を使用する。これらの化学物質は作物(家畜)の周囲にいる生物たちを殺し、それらと作物(家畜)との関係を絶つ。殺菌剤は菌類や細菌類、殺虫剤は昆虫、除草剤は雑草を殺す。化学肥料の投与は作物への栄養補給だけでなく、土壌中の微生物を殺す役割を期待されている。この結果、作物(家畜)の周囲に見えない“密室”が設えられ、その中に作物(家畜)は閉じ込められる。この方法は稲作、畑作などで普及している。現代農業は、自然を「悪」と考える。この技術には自然に対する強い「不信」がある。だから人間は作物(家畜)を自然から守らなければならない。
 一方有機農業と呼ばれるもう一つの技術では、作物(家畜)を自然の推移(循環)の過程にまかせる開放型の農業である(注1)。作物(家畜)も自然の一員。現代農業とは逆に、農業を自然の推移に組み込むことでその生産性と持続性は保障されると考える。作物(家畜)は絶えず変動する自然との相互作用により、その生は喚起され、健全な成育に向かう。有機農業は自然を「善」と考える。自然への強い「信頼」がその背景にある。だから人間は作物(家畜)を自然の中に放り出す。

*3・11の果てに*

 生物の棲む自然環境が、毒物質で広く汚染される事態はしばしば起こる。しかしそのような事態が起こる原因は自然自体にはなく、人間にある。環境汚染は自然現象ではなく、社会的現象である。
 もともと自然界には毒性物質が存在する。例えば銅や水銀のような重金属である。しかしこれらは通常地中に存在し、生物に影響を与えない。しかしそれらが人間の手で掘り出され、水系や大気中に放出されるようなことになれば、環境は汚染され、そこに棲む生物たちに甚大な被害が及ぶ。
 一方、これまで人間が作り出した合成物質(農薬など)は無数にある。それらはもともと自然界には存在しないから、ほとんどの生物はそれらを代謝分解できない。合成物質が環境に放出され、そこに暮らす生物の体に侵入蓄積すれば、生物たちの体は一方的に蝕まれる。
 放射線も生物へ様々な作用を及ぼす。放射線を出す物質は自然界に存在している。しかしこれらの物質も通常地中に眠り、広範囲の生物に影響を与えることはない。しかし人間の手によりそれらが採掘、濃縮され、一定の大きさの塊と化せば、それらは無限に連鎖する核反応の結果、強烈なエネルギーと放射線を放射し周囲の生物たちに致命的な作用をもたらす。もし放射性物質が大気中に大量に飛散すれば、広範囲の生物たちに長期間にわたり深刻な被害を与え続ける。2011年3月11日、日本列島で起きたことはそのような悲劇だった。
 午後2時46分、大地震が発生。それに引き続き大津波が襲う。被災した東京電力福島第一原子力発電所はすべての電源を喪失。原子炉は次々とメルトダウン。噴出された大量の放射性物質は、やがて大地に降り注ぎ、海に流れ込んだ。この悪夢のような事態は農業、とりわけ有機農業に深刻な打撃を与えている。畑の土、田に引き入れる水、堆肥にする里山の落ち葉、牛に与える草・・・、これらのすべてが汚染された。自然に寄り添おうとすればするほど、汚染度の高い収穫物を生みだすほかない。有機農業に降りかかった試練は不条理そのものである。
 堆肥から化学肥料へ。露地栽培から施設栽培へ。放し飼いから舎飼いへ。自給飼料から人工飼料、輸入飼料へ。“安全な”食べものという大義名分のもと、こうして開放型技術の規制、閉鎖型技術への転換が半ば強制されている。環境汚染に対して有機農業はほとんど対応できない。それは作物(家畜)を自然にまかせる有機農業の宿命である。炭鉱内での環境悪化はカナリアがいち早く知らせてくれるという。有機農業はカナリアの役割、つまり環境汚染の最も敏感なホイッスルブロワーの役割を果たす。炭鉱内の環境悪化の原因がカナリアではないように、放射能汚染の原因は有機農業ではない。有機農産物を放射能に汚染された最も“危険”な食べ物とみなし、それを市場から放逐しようとするのは、事柄の因果関係をひっくり返し、真の元凶を隠ぺいさせることになる。

*リスクシェア*

 自然界には、作物(家畜)に病気を引き起こす多様な病原生物が存在している。作物(家畜)はこれらの生物たちと長大な時間をかけ、「敵対的共存」、あるいは「共存的敵対」ともいうべき共生関係を築いてきた。だから作物(家畜)の健全な生活には、これらの病原生物の存在は欠かすことができない。現代農業(あるいは現代医学)のように病原体を撲滅し、“リスクゼロ”を追求することはそもそも幻想であり、技術として健全ではない(注1)。
放射能(放射性物質)と生物との関係を考えてみる。放射線は生物のもつ遺伝子の変化(突然変異)を誘発する。突然変異により生物は種としての多様性を維持し、それがその種の進化の原動力となる。その意味では生物にとり放射線ゼロの状態は好ましくない。しかしここでいう放射線は、自然界に散在する放射性物質に由来するものや、宇宙から紛れ込む微弱な線量のものをいう。生物はそれらの被曝は避けることができない。人間が弄ぶ濃縮された核物質から放射される放射能とは問題が別だ。
 人間や自然の健全性を考えれば、放射能リスクは限りなくゼロであることが望ましい。核兵器廃絶、原子力発電全廃を主張する正当性はここにある。福島原発事故による放射能汚染を憂慮するのなら、何よりも事故の早期終息、そして列島中の原発の即時停止・廃炉をこそ、要求しなければならない。
 しかし今回の事故で東日本の大地や海は、既に大量の放射性物質で汚染されてしまった。この時に至り、“リスクゼロ”を追い求めることは幻想だ。幻想というだけでなく、リスクゼロの追及は被災地の人々のくらしの継続性を絶ち、農業など第一次産業を追い詰める結果をもたらす。
 消費者の立場では、半年や1年の間なら、“安全”と思われる食品(例えば輸入農産物など)を探し出し、それによって暮らすことはできるかもしれない。しかし生産の現場では、半年、1年でも生産が停滞するのは許されない。ただでも農業、特に有機農業の経営は脆弱だ。“汚染”(の恐れ)を理由に提携する消費者の多くが脱落していけば、農家の経営はただちに悪化し、有機農業廃業、ひいては離農も余儀なくされる。消費者の“リスクゼロ”の要求は、農業生産の基盤そのものを揺るがす。
 今主張されるべきは、“リスクゼロ”ではない。リスクの存在を前提にした“リスクシェア”である。放射能汚染という危機を生産者、消費者が共に分かち合い、農業生産を継続させる条件を共同で発見することだ。種を播き、収穫物を食べ続けることでしか現在のリスクは乗り切れないことを、誰もが覚悟しなければならない。

*放射能との共生*

 好むと好まざるとにかかわらず、我々は“放射能との共生”を強いられている。放射能で汚染された自然と寄り添いながら生きていく時代が到来した。その際、人間には新しい“感性”、“力量”が必要になる。
 放射能汚染の実態を知るために「測定」の大切さが主張されている。それに異論はない。しかしその「測定」が“リスクゼロ”を追及する手立てとして行われるならば、事態はより悪化する。測れば測るほど、事実が明らかになればなるほど、第一次産業を追い詰めることになると予想されるからだ。「測定」はあくまでも“リスクシェア”を前提にして行われなければならない。
 事実が分からなければ気が済まぬという感性は、近代という時代に特有なものだ。「測定」することを知らぬ近代以前の人間たちが、不幸であったとは到底いえない。どんなに頑張っても人が知れることはたかが知れているし、「事実」の集積が必ずしも「真実」を意味するとは限らない。これらのことを我々近代人はともすると忘れる。原発の生む電力を利用して「過剰な明るさ」を求めてきた現代人。原発技術とそれが生みだした「過剰な光」は、何でも知らなければ気が済まない近代人の「明晰さ」、つまり近代的理性が生んだものだ。「原子の火」に依存しないくらしは「暗闇」を恐れないことを意味する。その「暗闇」の中で人の眼は感度を増す。とすると人は案外「暗愚」、つまり「無知」であればこそ事の「真実」を見抜くことができるのかもしれない。
 放射能汚染はどの程度であれば「安全」、あるいは「危険」なのか。それは誰にも分からない。それでもその線引きをしようとするのは、まさに近代的理性だ。放射能と共生するためには、人は分からないことに耐えられる感性が必要である。安全と危険を画する科学的(合理的)基準がない以上、汚染された食べものを食べるべきか否か、汚染された土地から離れるべきか否かの「正解」はない。それを判断するのは科学者でも為政者でもない。最終的には人々一人ひとりの判断に委ねられるべきだ。人は自分の「生き方」に照らして決断を下す。「安全=健康」を何よりも優先する人。そうではない人。人により判断は当然異なる。そしてそのいずれもが一人ひとりにとっては「正解」なのである。放射能と共生することは、自分と異なる意見の人が存在することにも耐えられなければならない。
分からないことに耐えながら、それでも手にしたいくつかの情報を基に事態を判断し、一定の決断を下す。実はこのような人間の力量は、農、とりわけ有機農業の現場では欠かすことができないものだ(注2)。
 自然に寄り添おうとする有機農業。しかしその自然は変幻自在である。だから農法は地域によって違うし、まだ同じ地域でも畑一枚一枚違う。今年うまくいったからといって、次の年うまくいくとは限らない。耕す人にとって畑での一瞬一瞬は、常に新しい経験だ。しかし耕作者は日々の絶え間のない繰り返しの中から、ある真実に近付いていく。全体としてそれなりにうまくいき、それなりに納得できる。このような実感を得たとき、人はその土地に応じたその人なりの農法を獲得したと言ってよい。しかしこのとき、農法を形づくる一つ一つの事柄について、なぜそうするとうまくいくのか、あるいはいかないのかは、必ずしも分かっているわけではない。それを理解し、説明するには事柄はあまりに複雑すぎる。農の現場は分からないことだらけの世界なのである。そこは人に自らが明晰であるという自信を与えてはくれないが、その代わりに人に実感や納得といった確かな手ごたえを恵んでくれる。
 放射能との共生とは、少々汚染された食べ物でも口にするということだ。人の身体の内には、放射能を解毒する仕組みはない。しかし放射能で撹乱された細胞内の代謝を正常に戻す力や変性した細胞を取り除く力はある。そのような力は地産地消、旬産旬消に裏付けられ、農薬や食品添加物のような合成物質の摂取を極力避ける健全な食生活により涵養される。人が放射能と共生するためにこそ、有機農業の力が必要なのである。

 有機農業は食の「安全性」を大事にしてきた。しかしこの食の「安全性」とは、食品が毒物質に汚染されていないことだけを意味するわけではない。食の安全には二つの側面がある。質の安全と量の安全である。つまり食の安全とは、人間の健康を保障する健全な食物が、いつも安定して供給される状態を指す。“汚染ゼロ”を追及するあまりそれが肝心の農業生産の基盤を揺るがすことになっては元も子もない。それは食の安全性を損なうことでもある。
 有機農業が大事にしてきたことのもう一つは「関係性」である。「関係性」にも二つの側面がある。一つは、生産(者)と消費(者)との関係性である。村の自給の延長に町の食卓がある。村の自給が断たれれば、町の食卓も崩壊する。村と町は一体だ。両者を結ぶ強い絆が有機農業を支え、町を支える。もし有機農業が危機にあれば、その時こそそれを支える町の力量が問われる。
 もう一つは、人間と自然との関係性である。人は自然の恵みにより活かされる。その自然が汚れれば、人も汚れる。この自然と人の一体性から人は逃れることはできない。
母なる自然は、今放射能によって広く汚染されてしまった。その危機の中、有機農業の真価が問われているのである。

注;
(1)中島紀一ほか編著『有機農業の技術と考え方』(コモンズ・2010年)参照
(2)拙稿「農の技術(わざ)を物語る-『有機農業の技術と考え方』出版によせて」(『庭プレス』homepage.mac.com/onnn/niwapress 2010年9月号社説)参照

*本稿は、原発事故と有機農業を考える集まり「種をまこうの会」(事務局/茨城大学農学部・飯塚里恵子 momoham4@hotmail.com)w@k )の第3回研究会(2011年7月16日)での報告に加筆したものである。