2011年10月号・社説 →e-mail

Holy Island
明峯哲夫(農業生物学研究室/NPO・有機農業技術会議)

 

 私が初めて旧東ドイツを訪ねたのは、ドイツ統一から8年たった1997年春のことだった。どの町でも至る所で建物のスクラップ&ビルドが進行していた。工場、アパート、ショッピングセンター、オフィスビル、駅舎・・・。スクラップ&ビルドといえば、旧東ドイツは国全体がスクラップ&ビルドされたようなものだった。共産主義が崩壊するや、たちまち資本主義がやってきた。
 旧東ドイツで民主化運動を担った人々は、共産主義のすべてを 批判したわけでも、資本主義を無批判に受け入れようとしていたわけでもなかったろうと、私は想像していた。民主化運動が最も盛んだったライプツッヒ市郊外に住み、当時民主化デモに積極的に参加したという私と同世代のある夫妻は、「壁の崩壊は感動と共に不安をもたらした」と語ってくれた。「私たちは共産主義と資本主義のそれぞれの良い所を併せ持った新しい社会を求めていたのです。そしてそれは今でも同じ。でもそれを実現させるのはとても難しい」。彼らは共産主義社会に生まれ育った自らのアイデンティティに誇りを持ち続けていた。その一方で、現実への冷静な目と未来への信頼も失なっていなかった。私は夫妻を前にして、心の高まりを抑えることができなかった。そして彼らはこう付け加えた。「民主化運動の中で私たちが最も求めていたのは“旅行の自由”です」。夫妻は統一後、既に何回かの外国旅行を楽しんだという。
 人は旅する動物である。何万年か前東アフリカのとある場所で誕生した人類が、今こうして地球の隅々まで住み着いているのは、人類が根っからの“旅好き”であることの何よりの証拠である。旅する自由を人々から奪った旧東ドイツの共産主義は、それだけで人間解放の思想としては失格だった。



 人は、まだ見ぬ土地への憧れ、好奇心を抑えることができない。「壁」に囲まれていた旧東ドイツの人々のように、周囲を海に囲まれ暮らす離島の人々にとり外の世界へ飛び出そうという衝動はひときわ強いだろう。山口県周防大島で生まれた民俗学者宮本常一(1907年~81年)もそんな島育ちの一人だった。「日本列島の白地図に宮本の足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」(注1)と言われた程、宮本は全国津々浦々を訪ね歩き、伝統文化の発掘、記録に生涯を賭けた。彼は終生旅人だった。
 自分の旅好きは父親の影響が大きいと、宮本は自らを語っている(注2)。父親はよく一人旅をした。「ちょっと出てくるから」と行き先も言わずに出て行く。特別の目的があるわけではない。そのような性癖は父親一人のものではなく、村人全体にそのような気風があった。明治の終わりの頃のこと、島の男たちが小さな漁船へ乗って沖へ漕ぎ出していくことがあった。夕飯時になっても亭主の姿が見えぬ。そういう家が四、五軒あって、騒ぎになる。一週間程してひょっこり帰って来た彼らに聞けば、「海は凪いでいるし月夜だから、宮島に参ろうということになったが、とうとう出雲大社まで参ってきた」という。
海は無限に広い。船(舟)と確かな航海術さえあれば、島人は世界の果てまでも行き着くことができる。彼らは海の民。海洋民の眼はたえず世界に向いている。



 日常の島の暮らしは、狭い土地に強く制約される。島人たちは与えられた土地を精一杯活かすべく、あらゆる知恵と工夫を張り巡らす。その結果島々にはそれぞれ独自の土着的、自給的文化が育つ。宮本の故郷周防大島の西方およそ20キロに浮かぶ山口県祝島も、そんな離島の一つである。
 周囲12キロ、人口501人(2010年2月末現在)の小さな島。その祝島の4キロ対岸に「中国電力上関原子力発電所」建設計画が持ち上がったのは、1982年のことだった。「海と山さえあれば生きていける。だからわしらの代で海は売れん」。祝島の人々は以来30年近く原発建設反対運動を続けてきた。映画『祝(ほうり)の島』(纐纈あや監督・2010年・ポレポレタイムス社製作) は、その祝島の人々の日常的暮らしを美しい映像で描き出した作品だ。「彼らが原発に反対する以前から何を大切にしてきたのかを知りたいと思い、それは“日々の暮らし”ではないかと考え、海に山にその生活を2年にわたり追い続けた」と、監督は綴っている(注3)。
 「離島は車でどこかに行って働くことはできない。海と山で生きていくほかない」と高齢の女性が語る。しかしレンズに映る島人たちの表情は開放的で、人懐こく、楽天的に見える。彼らは紛れもなく宮本が描く海洋民そのものである。
 81歳の女性が言う。「生きてたら、おもしろおかしく生きにゃ」。中国電力への抗議行動には一言、「おもしろかった」。彼女たちは「ごはん食べなきゃ戦争できん」と、カップラーメンをすすりながら座り込みを続ける。島人たちは週1回、島内をデモ行進する。ほとんど高齢者だけの行列はどこか華やぎ、まるでハイキングかウォーキングのよう。しかし彼らの発する声は大きく鋭い。「原発はんたーい!」。反対運動はしっかりと日常の暮らしに根付いている。
 「海が無ければ生活できない。海と山があれば生きていける。みんなが守ってくれたから、こうして生きていける。子や孫のために」。島人の語る言葉の端々には、いつも先祖と子孫が登場する。「古代から続く無数のいのちの連なりがあって、この自分のいのちがあり、それがまたこれからのいのちにつながっていく。祝島の人たちは、その大いなるいのちのつながりに連なる者として、原発反対を選び続けている」(注3)。暮らしの場は空間的には有限。島人たちは無限に続く時間軸の中で生きようとする。
 祝島は平地が少なく、山は急峻で岩だらけだ。確保できる真水は限られ、台風の通り道でもある。沖合は潮流が激しく、絶えず荒れる。それでも人々は掘り出した山の岩を積んだ棚田を耕し、海に漕ぎ出すくらしを続けてきた。それはいつだっていのちがけだった。「自然からの恵みをいただくということは、その厳しさをもひたすら受容することを意味している。良いとこどりはあり得ない」(注3)。
 中国電力の作業船がやってくる。原発建設予定地に立ち入り禁止柵を設置しようとするのだ。幾艘かの漁船が並び、その行く手を阻む。船は互いにロープで繋ぎ合っている。船上から老婦が叫ぶ。「お前らいのちをかけてやったことがあるか。何か!」。作業員たちはたじろぎ、思わず目を伏せる。島人たちには「確信」があり、原発を作ろうと諮る人々には「確信」がないことを、映像は捉える。島人たちの「生きることへの確信」は土着的、自給的暮らしの中で育まれたに違いない。しかしそのような暮らしから切り離された中電社員にはその「確信」が失われている。溢れる程の物資と情報に翻弄された都市的暮らしは人々から「生きることへの確信」を奪い取り、その根無し草のような暮らしはやがて原発に依存するまでに、堕ちていく。



 ライプツッヒ市に暮らす夫妻のいう「第三の社会」とは、どのようなものなのだろう。私たちはそのことを巡ってひとしきり議論を続けた。先進国の都市に暮らす人間が失った「生きることへの確信」を蘇らせるため、新しい社会は「自給」や「循環」を大切にしなければならないと私は言った。彼らはすぐに賛成してくれた。夫妻は長らく自給的暮らしを実践する熱心なクラインガルテン利用者であった。

 祝島は古代から、沖合を行く船の安全を先導する神官「祝(ほうり)」の住む島と言われてきた。そしてそこに暮らす人々の姿は、その島の名にふさわしい。「祝(ほうり)の島」は「 Holy Island(聖なる島)」なのである。

注;
(1)佐野眞一『宮本常一がみた日本』(2010年・ちくま文庫)参照
(2)宮本常一『民俗学の旅』(1993年・講談社学術文庫)参照
(3)纐纈あや「いのちのつながりに連なる」(池澤夏樹他著『脱原発社会を創る30人の提言』・2011年・コモンズ 所収)参照