2012年06月号・社説 →e-mail

書評/山本義隆著
『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』
明峯哲夫(農業生物学研究室/NPO・有機農業技術会議)

 

 1960年代末から70年代初頭にかけて全国を席捲した大学闘争、とりわけ「全共闘運動」はどのような社会的意味を持っていたのか。これは当時農学部の大学院生としてその渦中にあった評者自身も、今なお反芻し続ける命題である。全共闘は特別の綱領をもたず、誰もが自由意志で参加できた。各大学は個別の問題を抱え、さらに運動主体により問題意識、設定課題は多様だった。したがって全共闘運動を一律に論じることはできない。この運動がそれまでの学生運動と一線を画していたのは、院生、助手など多くの若手研究者(特に理系の)が参加したことだ。彼らは闘争の中で、現代の科学・技術は体制内に制度化されその総体が資本主義を支え、結果として人間や自然を収奪していることを痛烈に批判した。そしてそのことに無自覚なまま「大学の自治」「研究の自由」を標榜する大学は「解体」されるべきと告発した。しかしこの批判は同時に、研究者としての自らの生き方をも問うものだった。この立場からは、全共闘運動は科学・技術幻想に対する研究者自身による挑戦だったと言える。しかしこの“アカデミック・レボリューション”はただちに「代案」を提案できるようなものではない。それは「永続革命」であり、主体にとっては生涯をかけた「闘い」を必要とするものだった。彼らにとり全共闘運動は「物語の始まり」にすぎなかったのである。
 当時東大博士課程で素粒子論を専攻し、闘争勃発後東大全共闘代表として全共闘運動を象徴する存在だったのが、この本の著者山本義隆氏(1941年生まれ)である(注1)。その後彼は大学を去り、予備校で物理の教師をしながら科学史の研究に携わってきた(注2)。本書は「物理教育のはしくれにかかわり科学史に首を突っ込んできた私が、それなりにこれまで考えてきた、そしてあらためて考えた原子力発電に反対する理由」(あとがき)である。長い間情況に対し沈黙を守り通してきた著者が、こうして原発事故に関する書を上梓することになったのは、物理学徒、科学史家としての責任、そして何よりも事故に対する強い「怒り」を抑えることができなかったからであろうか。
 
 本書は(1)戦後のパワー・ポリティックス (2)原発技術の実態 (3)原発技術の科学史的位置の3つの内容からなる。
 国家による原発開発がエネルギー政策だけに基づくものではないことが、「原発」という問題をことさら複雑に、深刻にしている。1958年日本で初めて原子力発電に向けてアクセルを踏んだのは、時の総理大臣岸信介であった。彼は戦前に東条内閣のもとで商工相として戦時統制経済を指導し戦後公職追放された「戦犯」だったが、著者の世代にとっては60年安保闘争を弾圧し日米安保条約改定を強行した「仇敵」でもある。岸は回顧録の中で「日本は核兵器は持たないが、[核兵器保有の]潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることが出来る」(p8)と述べている。「つまりこの時点では原子力発電(原子炉建設)の真の狙いは、エネルギー需要に対処するというよりは、むしろ日本が核技術を有すること自体、すなわちその気になれば核兵器を作りだしうるという意味で核兵器の潜在的保有国に日本をすることに置かれていた」(p9)。すなわち「日本における原子力開発、原子炉建設は、戦後のパワー・ポリティクスから生まれ・・・、岸にとって『平和的利用』のお題目は、鎧のうえに羽織った衣であった」(p12)。著者は当時の学者サイドの反応に関心を向ける。「当時の物理学者の抵抗がなかったわけではもちろんないが、今から見ればやはり非力であった」(p13)。「学者にも共有されていた科学技術の発展にたいする当時のあまりにも楽天的で無批判な信頼が『原子力の平和利用』という幻想を支えていた」(p13)。
 岸の路線はその後の自民党政府により継承されていく。82年中曽根内閣と米国のレーガン政権は「新日米原子力協定」を結び、それまで厳しく制限されていたプルトニウムの拡散は大幅に緩められる。こうして日本は核燃料サイクルにゴーサインが与えられ、核爆弾の原料となるプルトニウム大量保有の道が開かれた。著者は言う。「潜在的核保有国の状態を維持し続け、将来的な核兵器保有の可能性を開けておくことが、つまるところ戦後の日本の支配層に連綿と引きつがれた原子力産業育成の究極の目的であり、原子力発電推進の深層底流であった。とするならば、脱原発・反原発は、同時に脱原爆・反原爆でなければならないといえよう。・・・原子力発電の推進、核燃料サイクルの開発が、このように『産業政策の枠を超え』る『外交、安全保障政策』の問題として位置づけられているのであれば、経済的収益性はもとより技術的安全性さえもが、二の次、三の次の問題となってしまう」(p24-25)。

 原発技術はそもそも技術として未熟と、著者は述べる。「科学技術とは科学理論の生産実践への適用であるが、実験室の理想化された環境で十分に制御された微小な対象によって検証された理論から、様々な要因が複雑にからみあった大規模な生産までの距離は極めて大きい。その距離を埋める過程では多くの試行錯誤が必要とされる。電気科学理論から電気工学までの距離にくらべ化学理論から化学工業までの距離は大きく、そのため後者ではしばしば公害を生みだし、また事故も生じた。しかし原子核物理学から原子核工学―核兵器生産と原子力発電―までの距離はもっと大きく、そのため化学工業で露呈したものよりずっと大きな困難と問題を内包している」(p27-28)。その問題の中心にあるのが「死の灰」の発生である。著者は、「死の灰」すなわち核分裂生成物はもとの燃料とほぼ同質量であり、まるで燃料物質がすべてエネルギーに変換されるような通俗的説明を退ける。さらに公害を生みだす物質の毒性は「分子の性質」であり原理的には化学的処理で完全に回収または無毒化しうるが、放射性廃棄物の有毒性は「原子核の性質」でありそれを無害化することも寿命を短縮化することも事実上不可能であることを説明する。原発推進派はこの原発廃棄物を地中深く保管することを画している。しかし「世界屈指の地震大国にして有数の火山地帯で、国土には多くの活断層が走り、豊富な地下水系を有する日本国内に、数万年も安全に保管できる場所がどこにあるというのか」(p37)と批判する。放射性物質の放出は、ウラン鉱石の採掘から使用済燃料の最終処理に至る全行程で防ぎえない。その行程に関わる労働者は常に危険な作業を強いられる。「原子力発電は、たとえ事故を起こさなくとも、非人道的な存在なのである」(p44)。
 どれだけ技術が進んでも原発事故は起こりうる。それはこの技術について全体を見通せる人間が誰もいないからだと、著者は述べる。「結局のところ原子力発電プラントは、その構造の巨大さと複雑さのゆえに、事前に予期し得ない事故を起こす危険性をつねにはらんでいるのである。それ自体は不注意による些細な操作ミスや瞬間的な判断ミスや施工ミスが重なったときに、それがどのような結果をもたらすのかは、本当のところはわからない」(p51)。「事故の影響は、空間的には一国内にすら止まらず、なんの恩恵もうけていない地域や外国の人たちにさえ及び、時間的には、その受益者の世代だけでなくはるか後の世代も被害を蒙る」(p57)。「とすれば、端的に原発は作るべきではないという結論になる」(p58)。

 原発技術の科学史的位置づけについては多くのページが割かれている。
 中世ヨーロッパ、人々は自然への畏怖を持ち続けていた。しかし16世紀ルネサンス後期には、「自然の法則に随順することによって秘められた自然の力を使役しうるという可能性を公然と語り始めた」(p61)。こうして著者が「十六世紀文化革命」と名づける知の地殻変動が起き、これが十七世紀科学革命へと発展してゆく。
 ガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより確立した近代科学技術思想は何よりも「技術」と「経験」を重視するものだった。それは自然に対する「能動的な、というよりむしろ攻撃的な実験思想」(p66)であり、「その延長線上に科学技術による自然の征服という思想が登場する」(p66)。「近代科学は古代哲学における学の目的であった『事物の本質の探究』を『現象の定量的法則の確立』に置き換えただけでなく、魔術における物活論と有機体的世界像を要素還元主義にもとづく機械論的で数学的な世界像に置き換えることで、説明能力においてきわめて優れた自然理論を作りだした。そして同時に近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然にたいする畏怖の念を忘れ去っていったのである」(p68)。
 ここで著者が考察するのは、「技術」と「理論」の関係である。18世紀後半のジェームズ・ワットによる蒸気機関の改良とその大規模な実用化の頃までは、技術が先行し、理論はあと追いしていた。しかし1831年のファラデーによる電磁誘導の発見とそこから始まる電気文明こそ、科学理論が先行する形での技術開発、つまり真の意味での科学技術の始まりであったと指摘する。そしてその近代科学技術が国家主導で巨大化した最初の例が、第二次世界大戦中の米国でのマンハッタン計画だった。「抽象的で微視的な原子核理論から実際的で大規模な核工業までの長く入りくんだ途すじを踏破するその過程は、私企業を超える巨大な権力とその強固な目的意識に支えられてはじめて可能となった。それは官軍産、つまり合衆国政府と軍そして大企業の首脳部の強力な指導性のもとに数多くの学者や技術者が動員され組織されることで実現したものであった。もちろん秘密の軍事研究であり、情報管理は徹底されていて、個々の学者の大部分は、全体としての目標への疑問は許されず、というか、そもそも原爆製造という最終目的すら教えられずに、与えられた問題の解決にひたむきに取り組んだ」(p80)。「こうして“怪物” 化した組織の中で、技術者や科学者は主体性を喪失していく」(p83)。日本における原発開発も同じ道を歩む。内部では意見対立や批判精神が欠除し、一方外部からの批判には一切耳を貸さぬ「原子力ムラ」。それに主導された原発開発を、著者は「原発ファシズム」と糾弾する。
 一方で著者は、科学技術の反社会性を見抜いた精神が既に19世紀には存在していたことを指摘する。フランスの作家ジュール・ヴェルヌである。彼はその晩年の1895年に『動く人工島』を発表する。電気を動力として完全に電化された巨大な浮遊海上都市を描くこの近未来小説は「科学技術が自然を超えられないばかりか、社会を破局に導く可能性のあることを、そしてそれが昔から変わらぬ人間社会の愚かしさかによってもたらされることを、初めて予言」(p74)している。これは「科学技術には『人間に許されぬ限界』があることの初めての指摘であった」(p76)と述べる。
 こうして著者は以下のように、本書を結ぶ。「3月11日の東日本の大震災と東北地方の大津波、福島原発の大事故は、自然にたいして人間が上位に立ったというガリレオやベーコンやデカルトの増長、そして科学技術は万能という19世紀の幻想を打ち砕いた。・・・私たちは古来、人類が有していた自然にたいする畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう。自然にはまず起こることのない核分裂の連鎖反応を人為的に出現させ、自然界にはほとんど存在しなかったプルトニウムのような猛毒物質を人間の手で作り出すようなことは、本来、人間のキャパシティを超えることであり許されるべきではないことを、思い知るべきであろう」(p91)。

 東大闘争のさ中に記した「攻撃的知性の復権」(注3)の中で、著者はこう述べている。「多くの基礎物理学の研究者には、研究成果は自己の私有財産という小所有者意識が濃厚で、同時に平等でアトム化された研究者は、人間の価値までも研究成果を通じてのみ評価される。研究者はひたすら細分化された自閉領域の中にみずからを追いやり、全体的な学問像も、社会的な学問の位置も、見失っていく。同時に脱イデオロギー現象は極限に進み、結果として体制べったりになってゆく」。ここで批判される研究者の姿は「原子力ムラ」に集う研究者の姿そのままである。あの時大学が変わっていたら、「3・11」は起こらなかったかもしれない。全共闘運動の思想としての先駆性と共に、運動としては全く無力であったことをあらためて思い知らされる。
 著者は同じ文章の中で「ぼくも、自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間―自覚した人間になって、その後あらためてやはり一物理学徒として生きてゆきたい」と述べている。本書は著者にとり、一物理学徒たらんと今も続く「闘い」の書であるに違いない。
農業技術でいえば、現代(近代)農業技術は明らかに「理論先行型」技術である。そのアンチテーゼとしての有機農業技術は、現場での「技術」を基礎にそれを理論的に総括するものと展望される。有機農業技術の確立は、評者自身のささやかな「永続革命」の課題の一つでもある。


(1) 当時の著書として『知性の反乱 東大解体まで』(1969年・前衛社)がある。
(2) 主な著書に『磁力と重力の発見』全3冊(2003年・みすず書房 パピルス賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞受賞)、『十六世紀文化革命』(2007年・みすず書房)などがある。
(3) 注(1)の著書に所収されている。

*この文章は『有機農業研究』(日本有機農業学会)に掲載予定のものです