2010年01月号 / Top
脳天気 農文化
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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100128 シリーズ農字 19「蓋」
 草かんむりのシリーズで気ままにやってきましたが、だんだんネタ切れになってきて、この「蓋」は「俗字」であります。雅かなほにゃっとしたもとの字形がありません。述語としてはむつかしい「蓋然性」なんてのがありますが、わたしには使い切れないや。

 小沢くん(政治家でなく)が久しぶりにコンサートをするとのこと。
 音楽を広く聴いてないので、過去の彼の活躍をぼくは知らなかった。
 ひょんなことから音楽以外のことで知り合い、話をしてきて、彼の考えてること・していることがなかなかに刺激的だった。だから、コンサートにも行ってみたい、と今思っている。どんなふうに彼はうたうのだろう?

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コンサートのサイト
http://hihumiyo.net/

 音楽はますます身の回りに充満するようになった。意識してもしなくても、いつでもどこにでも、音楽がないところがない感じ。トシヨリはそういった事態にすぐ耳をふさいで自衛などしがちだけれど、逆に自分でもやろうかっていうワカモノが、それもたくさんいるんだから、なんかスゴイことだなあとぼくは思う。

 音楽がいっぱい身の廻りにあると、ひょっとしてなにか安心、みたいな気分につながるだろうか。なにかお腹をぱんぱんにしていなければ落ち着けないように、自分と社会のあいだにあるでこぼこ感を羊水のように埋め合わせてもらえる、かのように。音楽は空気?水?
 そういった存在としての音楽のありようを想像してみる。(ぼくにはむずかしいなぁ...)

 フード付きの上着が出回っていてよく見かける。ボクサーやレスラーの専売特許かと思ってたけれど、洋服屋で「これが付いていないのはないの?」と店員に聞いたらヘンな顔をされるくらい。若いRくんも良く着ている。カノジョに「ごはんのときくらいフード取れば?」って言われるけど、被っているとあったかいしなにか安心だと言う。
 ワカモノの多くがイヤホンを付けて街を歩く。聴いているのが音楽なのか英語の勉強なのかは知らないが、フードのように音で社会とバッファーをつくり、それであったかくて安心、ということなんだろうか?

 消費社会の成長・成熟というものが、イメルダ夫人の膨大な靴コレクションみたいなわけに行かないことが一般人にもわかっちゃった時点で、チョー乱暴に言えば、音楽も含め、情報産業というようなモノがバトンを引き継いだ、と思える。
 言い方を変えれば、資本のチカラは具体的なモノで空間を埋めていくばかりでは不十分で、時空そのものも同様にマーケットにしていっている。ものすごい勢いで。
 具体的なモノはドアを閉めれば阻止できる。でも時空を漂っているものは、目を閉じる?耳をふさぐ?なかなかうまくいかない。たとえばそれがおいしいお菓子の匂いなのか、あぶないウイルスなのか...。
 なにか、底が抜けてしまった、という気がして仕方がない。

 一方、家庭というものが体をなさなくなった、と今よくいわれる。都市化が進行する中で、当初の労働者=都市生活者というものはかろうじて最小の家族を保ったわけだけれど、それも東西対立の構図が瓦解した頃から(もうちょっと前か)、人々は個へと分解されてしまった、という気がする。前向きでなくいえば女性の社会参画もそういう構図の中で。
 拡張し続けたい資本の側からすれば、サザエさん家にテレビや電話や冷蔵庫を一個だけ売るよりも、個人個人を直接マーケットの標的にすることは(優れて)当然のなりゆきだった。
 そんなことは所謂先進国だけでしょ?はナイでしょ。中国、南米、アフリカ...でのマーケティングは相当に進行していると見る(先進・後進の枠組みじたい変更される)。

 そうして人々は、地縁から自由になり、血縁からも自由になり、あげく戦士のように、世界を支える孤独な消費の戦いを強いられている。
 これ以上どのように人や社会が変化していくだろう?これ以上の未来はあるのだろうか?

 ...と、つまらないネガティブな文末になりそうだった。
 悲観するヒマがあったら、ラッパを吹き弦をつまびけ!
 土を掘り起こしロバに乗って、イケルところまで行こう!
 ぼくたちがなすべきことは、手の届くところに(物理的にデス)暮らしを「そろえる」こと、その場所・場面を設定すること、ではないか。きっとそれはウイルスのように押し寄せるマーケットに抗する核シェルターであり、世界のそういった仲間と交信するための電波塔なのだ。

 耳の蓋を取らなければ風の具合がわからない。アタマの被りものを外さねば、試合(戦闘ではなく)開始にならない。

 あたらしい音楽を土の中で育てよう。

(ナガタ・ま)

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