2010年04月号
脳天気 農文化
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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100428 シリーズ農字 22「荘」
 くさかんむりと、下に「壮(そう」(さかんである)を合わせて、草木が勢いよく生えている意味をあらわす。そこから「さかん」「おごそか」などの意味に使う、と辞書。
 「おごそか」は「厳か」であって、いかめしく近寄りがたく、お近づきになりたくないコトバの種類に入る。草木が生き生きしているのは歓迎するが、それをハハアと持ち上げることじたい何かヘンテコな意味が付与される。ものごとの理解の仕方として、上か下かというのはわかりやすいものだからだろうか。でもわかりやすい、は、あまり考えさせないということでもある。横並びにしておいたまま、いろいろおもんばかる、ということにはエネルギーや想像力を必要とする。知らない・どうでもよい人(コト)は上か下かに位置づけるなりして放っておけばよいが、おもんばかり、親密な関係を望めば相当にこちらの「持ち出し」が要る。
 「持ち出し」が面倒がられる昨今であるようだ。エライ人もフツーの人にも。
 「ムリ」って、とくに若い人がぱっと言っちゃうらしいが、語感がなんかなまめかしい(と思わない?)。言われたらどうしようかと想像しないでもないが、そんなふうに言ってくれるオネイちゃんがまわりにいない。「ムリ」って言えば「持ち出し」しなくてよい。しなくてよいの、だろうか? 想像上の「ムリ」のオネイちゃんは痩せている。「しない」せいだろうか。「しない」から食べなくて良くて、だから...。
 エライ人はどうだ? 政治の畑では「あいつはけしからん」「こいつは頼りない」みたいな足の引っ張り合い合戦ばかりで相当にあきれる。「こうする」方針提示にたいし「あーする」「そうする」にならなくて、「ムリ」なんてしゃれた言い方ではなく怒号が飛び交う。結局彼らも「持ち出し」したくないのだな。「しない」のにご馳走を食べるから...。

 荘園というものがありましたね。
 領主さまの一族郎党の利益のために、その領地内ではさまざまな収奪が行われたわけですが、その支配の構造をちょっと横に置いとくと(こういう仮定はヒンシュクかもしれないが)、その領地内でおもに農奴がやっていた(やらされていた)生活物資の生産は壮大な農的世界だったと思われます。中世の宗教画などに思わずうっとりしちゃうその様子が描かれています。牛にスキを引かせて耕している、肥料をまき畑の手入れをしている、収穫をしている、果樹が植わっている、家畜の世話をしている...など暮らしを物的に成り立たせる「ぜんぶ」が並んでいる生唾ゴクリ状態の箱庭です。背景に立派なマナーハウスがそびえ立っているのが描かれ、そうだよなこの構造が前提だったわけで、と思い知らされますが、工業化前の人々のシンプルなありようは、望遠鏡で覗いた美しい景色のようです。
 荘園が「上下」があるからこそ成立していたのを、「下」だけでやっちゃおうというのが昨今のエコ・ビレッジへのトライなんでしょうか。「上」をはずしてどうするか、それはそれは「持ち出し」しないと、にまずなるし、「上」が作用させていた「まとまり」としての接着剤機能をいま何に負わせるか、が大きな課題だという気がします。
 箱庭は美しい。人がじぶんのいる場所でより良く生きようとしたら、その日常に関わりのある人や物たちと交流し親しい間柄を作っていくでしょう。歴史を学んだ現代人はついその姿をマナーハウスを消した荘園の絵になぞら えたいかもしれません。
 ただ待てよ、とどうしても思う。目標はいろいろあろうに、と。個別にではなく、複合的に。
 それから望遠鏡を頼りに生きてはいけない、とも思う。つまずくとか現実的にとか言うのじゃない。「むこうがわ」に目標を置くのか?ということです。
 「流れる汗に未来をこめて、明るい社会を作ること」と口ずさみながらやってきたんじゃありませんか。それとコレがどう違うのか、ということ。
 この歌を作った人、あるいは積極的に歌った人は、どうも未来とかシアワセが嫌いだったんじゃないかと思える。現代という結果を見れば。そう、手にマメをこしらえるのも日に焼けしわくちゃになるのも。汗もマメも日焼けもすばらしい未来のための投資としてだけとらえてやいなかったか。汗が「下」、未来は「上」というふう「だけ」に。で、「下」にいる自分をじゃんじゃん肯定していく...。

 なんかこの辺が面白いんだろうな、とぼーっと思っているわけです。

※イラスト;
http://ja.wikipedia.org/wiki/荘園
に載っかってたものを加工。

(ナガタ・ま)

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