2010年06月号
脳天気 農文化
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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100628 シリーズ農字 24「蒸」
 くさかんむりと組み合わさる下部は音(オン)を示す字で、「しょう」→「じょう」(燃やすさま)なのだそう。
 かんむりを被り、それは燃料とする麻がらの意味をあらわし、のち、この字を借りて「むす」「もろもろ」に使うようになった、と辞書に。
 なんでこういう推移になるのか、これではわからないや。歴史の面白いところなのに。わたしも「??」。すみません、宿題。

 このくそ暑いなか、台所ではなるべく火を使わないようにしているのに、なんだこの暑い字、と思いつつ、述語としては「蒸気」「蒸発」「蒸留」などと、農的営為には関連が深いので取り上げる。もっとも、麻を燃やしたり(なんともいえないニオイだろうか?)、さらに蒸留などしてしまえば、「×処分」を前提に、どこぞの関係機関との緊張は強まる。よって、興味は尽きないが、軽く口走るだけにとどめおこう...。

 別な意味「もろもろ」とは、わかりよく言えば「多い」ということだろうか。辞書にある「蒸民」なんてこのごろ言わないし、さらに「蒸庶」や「蒸黎」だなんて???である。知らんわ。

 「詩経」の中に「蒸民」なんて言い回しが登場する、のだそうだ。それを例に挙げ、孟子(Meng zi 紀元前300年前後)は宣う。

 「だいたい、人間の性情というものは、本来善をなすことができるものなのだ。このことを、いわゆる『善』と定義しているのだ。もし不善をなす者がいたとしても、それは人間本来の資質の罪ではない。惻隠・羞悪・恭敬・是非の心は、人が皆持っている。惻隠の心は仁に、羞悪の心は義に、恭敬の心は礼に、是非の心は智につながる。だから仁・義・礼・智は、外から我に鍍金(めっき)したものではなくて、我固有のものなのだ。(不善なのは、)ただただそれらを思うまでに至らないだけのことなのだ。だから求めれば得られるし、捨てれば失う。そうやって善と不善が何倍にも隔たって比較もできない差ができるのは、自らの資質を尽さないからなのだ。詩経にこうある、

天は、もろもろの民を生ぜしめた
万物には、必ず法則がある
それゆえ民が正常なるときには
この至高の徳を好むだろう
(大雅『蒸民』より)

と。孔子は『この詩を作った者は、道をよく知る者だ』と言った。だから万物には必ず法則があって、人民が正常であるならば、仁・義・礼・智の至高の徳を好むはずなのだ。」

引用;
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius11-06.html

また「蒸黎」については杜甫(Du fu 700年代)の詩がある。

人生無家別
何以為蒸黎

などと言ったのだそうで、グサッと来るものがある。感覚は共有したくないけれど、現象は今にも続いているかと思われる。

引用;
http://chinese.hix05.com/dufu/dufu_2/dufu225.muka.html

 いま、蒸民を束ねる政治のシーンでは選挙である。
 ハトヤマくんが退き、さあ、これからどうするかということだが、相変わらず新聞などは時局の上っ面だけ取り上げ、蒸民のみなさんはワールドカップでも楽しんでいらっしゃい、みたいな装いである。
 上っ面、といっても課題の核心にという入口は意識されず、ことさらゲームのように駆け引きや順番が取りざたされるばかりで、低レベルの大根試合といったところだ。
 およそ蒸民が自分のアタマで考えることなどすべきでないような、そういうニュアンスで言えば箝口令(これもカビが生えるほど古いか)に近いプロパガンダの役回りを彼ら・メディア会社は演じている。少なくとも結果的には。
 何がなくとも人気投票。天気予報の降水確率で味をしめたか「支持率」だなんてものを錦の御旗のようにじゃんじゃん持ち出し、野球賭博なんてカワイイ、政権の方をヤレみたいな(あるいは逆、正義のアベレージとして)、ある意味ヒステリックな(したがって一定の説得力を持つ?)号令を発している。政治の行方は政治力によってではなく、メディアが見通す時代になってきている、ということを実感させられる。この期に及んで何かしてやろうと思うなら、政治家を志すよりメディアを興す方が気が利いている、のではないか。
 こういった情報の中では、みんながよりよく生きること、がうたわれる、かのように見えて実はいかに整列が乱れないか、みたいな一種任侠的(別な言い方では旧社会主義的な)約束事が大事にされるようである。まっぴらごめんである。
 いろんな政治家や政党もそれなりにやっている(いないところも?)のだろう。しかし実はメディア会社の打合せテーブルの上に散らばったメモ書きのようにそれらは乱雑であり、軽い印象を与えるよう演出がなされている。

 メディアはさまざまな事象に編集を加え、情報として流通させる。蒸民はその情報の受信能力向上に努力するよりも、どの港に錨を下ろすか、どの地に立つか、を主体的に考案し続けることが重要なことである、と考える。すでに日本人だから日本に、ではなくなってもいる。

 今後も不届きモノの政治家(とりあえず今回のハトヤマくんのことではない、ワタシ的には)は席を追われるが、蒸民を欺くとんでもないメディアもまた追放されることだろう。そうあらねば。

(ナガタ・ま)

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