2010年10月号
脳天気 農文化
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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101028 シリーズ農字 28「葉」
 草かんむりと合わさった下部の文字は「音を示す“よう”=うすい木のふだ」ということで、それがすなわち草木の「は」をあらわす、のだそうです。
 いくつかの述語は...なんだか奥ゆかしい。薄いものを数える言葉として「一葉」なんてのがある。んなのでも「一枚」でいいじゃん、と思ったりする。また「枝葉末節」って言われたって...、「つまらんもの」と言えよ、と。また「20世紀の中葉」ってのも、「中ほど」でどこがワルイのか。「末葉」は、まあ「子孫」か...。
 言い換えできないものとしては「前頭葉」とか「紅葉」、「葉書」...おーい「はがき」って読めるか?年賀はがきが衰退したら消える言葉?。
 !「ことば」か、それはきっと葉っぱのオカネ以上に大事なものだ。

 「葉月」といえば陰暦八月(新暦で9月上旬〜10月上旬)ですが、その語源の代表格は「葉が落ちる月」とのこと。ほかにいろいろ節があり、ま、いろいろという現在であるとこのサイトは言います。新暦でも八月をこう呼んだりするけれど私的にはやや腑に落ちない。
 今年の夏は記録的に暑く、この葉月も「例年以上」という状態。それでもクルミなんぞはさっさと実を落とし葉も落として素っ裸で越冬体制に入っていましたが、これは他と比べれば、という前提でこんなものなのでしょうか。わりあい気候条件に従順な(?=不明)このまわりにあるナラ、マカバ、ヤナギ、シラカバなどの雑木やカラ松は暖気に付き合って、「なーんかヘンな紅葉だね」の様子、つまり葉っぱがちゃんと紅葉しないまま枝にしがみついていた感がありました。
 そこに突然どかっと来た初雪。地上が暖かいせいか雪は重く、じゃんじゃん葉の上に積もる。いやー、たまんねーよー、という感じで枝は垂れ下がり主軸も曲がり、景気よい派手な音(雷と間違えた)をたてながら折れ、倒れまくったのが10月24日から25日にかけてのこと。
 電線にもたれかかったままの半端じゃない枝葉が気になるところですが、電力会社の復旧が遅れています。聞けば「こんなもんじゃ切れない」らしいけれど、あの木と共に“のけぞった”電柱はどうなる?というところ。工事の順番はいつ巡ってくるのかな。
 まあ、もしかしてそれよりも気にかかるのは一気に荒れた林の木々。木は立っていないとイケナイ。寝たり逆さになっていたりしてはいかんのです。それが早い雪も自然の出来事だ、こんなもんだよ、と思えないのは開拓農民の血が騒ぐからか?...、整理すればまた一年分以上の薪が出来上がるって寸法なわけで。

 さて、季節は巡り巡り、それが早いのなんのって。この勢いでお墓?まですんなり行ったらメデタシもいいところですが、そんな予定も希望も持ってたってなんにもならない。

 トンネル山の今後を考える。たのしい老後はたのしい隣人とともにやってくる、という予感。それがアイジンと言いたい向きもあるでしょうが、それに限らずいろいろあろうぜ、です。ワカモノを引き寄せといて...と見せかけながら気がついたらワカモノにぶら下がっていた、なんてのがいいかもなあ、いや、んなもの未定であります。そうです、人生、将来のために在るのではないわけで、いましたいことをしないでドースル、ということをつい忘れさせようとする世の中であります。そういうのに同伴してはイケナイ。同伴はそうではない愉快な隣人たちとスルに限ります。
 同伴者とスル愉快なこととは、言ってみれば「実験」みたいなこと。実験が成功かどうかは手がけてみなければわからない。いまは過度な情報量のせいか、たとえばワカモノであっても「そんなことはダメに決まっている」と石橋を叩きもしない風潮がある?のかな。叩いてこわしてばかりいるオジサンも困ったものですが、若くてキレイなその手でケータイ握るくらいしかしない人生もつまらなそうです。一定の評価が定まったブランドの服を着、なにか賞を取った映画に行き、ハズレがなさそうな有名な演奏家を聴きに行き、面白くないはずのない小説を読む...。ちょっとずつ違った違いしかないそういったパーソナルな世界が、たとえばインターネットを基軸としたライフスタイルで形を成し、それが世界産業の大きな資産になっていると思います。言い換えれば、世界を支えるアナタは「自分のことはなるべく自分で」と言いにくい社会を生きることを余儀なくされている。そして自分のことは自分でやっちゃえる人は特別な存在として情報化され、そうではない全体を補完し支える存在として重宝されるわけですね。

 何かをやっちゃえる人は、やろうと思った時点で形はどうあれ結果を見ていると、ぼくは思います。本人が意識していなくとも。結果を確認する実験というのでなく、自分を発射台に乗せられる人。発射台は磁石みたいな要素もあって人を引き寄せる。
 なにかドカンととんでもなくすごいことをしよう、というのではないのです。デキルことを持ち寄って集まる、なんてこととも違う。手作りの発射台を並べて幾人もが作用し合う、そんなトンネル山の状態を夢想してしまう。
 群雄割拠って言い方はちょいと問題アリだけれど、なんかそんなかんじ。「群・酉・合・居」とでもいいますか。

(ナガタ・ま)

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