2008年1月号
にわにわにわ研
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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080114 ゲリラ的農村 〜エリザベスさんの映画に触発されて
文/野口 一彦

(編集者注記;この映画とは、2007年7月にトンネル山で上映された「おばさんたちが案内する未来の世界=作 エリザベス・コール&小沢健二」である。)

 この中南米の映画を観たあと、いま感じたり思っていることを無性に書き記してみたくなった。

 この映画の中心テーマは、グローバリズム対ローカリズムの戦いと見る。
 私たちはグローバリズムの側に身を寄せて物質文明を謳歌している。なんの疑問も抱くことなく、それが幸せに通じることだと信じて、毎日あくせく働いている。
 グローバリズムとは何か。
 辺見庸氏はコラムで「勝者は資本、敗者は人間」(北海道新聞2005年12月27日夕刊)と言い放つ。
 要約すると、

1;資本とは法則的に世界化する。グローバリズムは単にブッシュの意思だけでなく資本の法則だった。さらに戦後約60年の今、社会主義という象徴的価値体系の崩壊とともに理想や夢の消失はさらに進み、価値観の底が抜けたどころか人として目的のない世界が完成しつつあるようだ。こうした今日的世界の勝者とは、ブッシュ米政権や小泉政権さらに大資本家たちということではなく、「資本そのもの」なのであり、敗者は人間ということではないか。これが危機の源であり世界規模の失意なわけだ。
2;資本の新たな行き場は、争いや自然災害などあらゆる種類のカタストロフィーではないか。
3;資本は案外合理的で民主的な市場を好むが、究極的には反人間的な結果をもたらす。
4;資本を繰るのも人間という見方もあるが、逆に人間が資本の幻想に繰られている。
最後に辺見氏はこう締めくくっている。「現在の反テロ戦争は反永久化するだろうから格好の投資先になる。昨今戦争の民営化とか言われているが、戦争はすでに市場化していてマネーの最大の磁場である。偶発的なものを含む局地的核戦争も近未来にはあるかもしれない。その時人々の嘆きをよそに資本は活性化する。破局がなければ破局を人為的に作らせるのも資本。」

 僕は辺見氏の考えにくみする。
 資本はたとえば「癌」のように増殖する。それを止めることがはたしてできるのか。
 確かに肉体が滅びれば癌は死滅する。人間が滅びれば資本も死滅する。資本との無理心中はごめんだ。聞くところによると2万5千光年離れた知的生物がいると思われる銀河に電波でメッセージを送ったそうだ。返事を受け取るにはさらに2万5千光年待たねばならない。壮大なロマンのある実験を確認するためには5万光年文明は生き続けなければならない。映画によれば、今の経済学は地球環境に与える負荷をコストに組み入れていないという。このままでは必ず将来に禍根を残すことになる。もう地球は微熱状態かもしれない。

 そういったものへの対立軸は「風土」であり「くらし」。
 エリザベスさんの映画は、先住民の「風土とくらし」にとことんこだわっている。圧巻は羊の屠畜シーンだ。カメラがぶれず...、あらためて私たちは生き物の命をいただいて生きているということを実感させられた。
 例えばNHKテレビが生産と消費のど真ん中である屠畜シーンを放映できるか?おそらく視聴者から「かわいそう」「好ましくない」などと非難轟々だろうが、もしそれでもするとなったら、その時は受信料の支払いを真剣に考えたい。
 僕も何羽か鶏をつぶしているが「かわいそう」と思う気持ちはやはり消せない。だからといってつぶさないという論理にはつながらない。つぶしたあとは嬉々として解体している自分に出会う。先日庭の片隅で鶏をつぶしている時にたまたま団塊の世代かと思われる灯油配達の人が来た。彼は懐かしそうに子供のころよく鶏とか兎をつぶして食べたと語ってくれた。農家の出身とのことだったが、まだこのような記憶を持っている人がいるかと思うとうれしくなった。
 身の回りには物があふれ、食べる物も何もかも不自由なく豊かだが、なぜか心は満たされない僕。タイムカードで時間を管理され、ノルマで心も体もくたくただ。(心療内科が増えるはずだ)
 このような状況で身近に僕たちにできることはないのだろうか。
 たぶん土から切り離されていることをなんとかしなくてはならない。土を取り戻すために、ささやかであるが農的生活を始めることが入口になるような気がする。

 提案がある。
 各家庭で畳1枚分の庭があれば鶏を1羽飼いましょう。鳴声が心配ならば雌を。雌は静かだから。そして最後は自分でつぶして食べましょう。侮るなかれ、たとえ1羽でも1000世帯で飼育すれば、家族を含めると約3000人の農的集落が市内に出現する。人の目には見えにくいかもしれないが、鶏を飼うというネットワークで構成された村のようなものが存在することになる。決して荒唐無稽な話ではない。1匹数万円もする犬・猫を飼ってる人はそれに比べればはるかに多い。ひよこは1羽250円から300円で手に入る。都市の中のこういったものを「ゲリラ的農村」と命名したい。
 僕は団塊の世代だが、通学していた幌西小学校(南10西17)のまわりには当時は養豚業や養鶏業の人たちがいた。しかしいつのまにか姿を消した。最近耳にした話しだが、野幌の酪農大学に隣接した場所で牧場を経営していた人が、後から住宅地が押し寄せその住民の圧力によって廃業に追い込まれたそうだ。なぜ牧場と共存できないのか。酪農大学もそのうち移転を迫られるのだろうか。それへの仕返しと言ってはなんだが、鶏を飼うことでささやかな抵抗とでもしておこうか。

 鶏を飼うことについては「庭先養鶏」という技術、端的に言えば餌はあるものでまかなうということだが、それを意識すると良いと思う。
 鶏を自前で飼うことによってさまざまな効用が期待できる。
1,台所から出る残渣(野菜屑・魚の切れ端・ご飯やめん類肉などの食べ残し)などに米ぬかを混ぜたものを餌に簡単に育てられる。時々5ミリほどの小石や貝殻を細かく割って与えれば完璧。餌にお金はかからない。かけない。生ゴミが街から減るから地球環境にやさしい。とりわけ生ゴミが卵に変わるということ。
2,鶏は犬・猫のように癒し効果がある。茶系の鶏は環境によく適応し人になつく。
3,犬・猫だと1日たりとも家を空けられないが鶏は餌と水を多めに与えておけば1泊2日くらいの旅行に行ける。
4,長期旅行だとつぶして食べればよい。犬・猫はこういうわけにいかない。天寿を全うするまで面倒を見る必要がある。
5,米作農家とのつながり。地産地消ということ。どういうことかというと、鶏糞にハエがたからないようにたえず床は乾燥させておきたい。そのためにはもみ殻敷きの床はたいへんよい。さらにそのもみ殻の入手ということだが、まずスーパーで米を買わず、こだわりを持って米作りをしている農家から直接買おう。そうすればきっと米ぬかやもみ殻はタダで譲ってもらえる。餌用に屑米もあったらそこで買おう。
 僕は栗沢の農家から1袋10キロ単位で2世帯分購入している。普段は宅配だけれど収穫のあとと6月(もみ貯蔵している)の脱穀時期にしかもみ殻は手に入らないので直接行く。彼らとコミュニケーションをはかることで勉強にもなる。
 マンション暮らしの人はどうするか。本当はベランダで鶏をつぶしたいが、それは無理なので、せめて鶏料理は1羽単位で買い、自分でさばこう。ゲリラ的農村の一員であれば鶏をしめるチャンスは必ずあるはず。

 ※ゲリラ的農村の村民とは鶏を飼ってる人に限らない。市民農園、家庭菜園、ベランダ農園、農的志向を持った人であればすべてオッケー。ネットワーキングの意義は、たとえば動植物を育てていればわからないことだらけ、協力し合えると解決の糸口は容易に見つかる。きっとさまざまな活用法があるのではないか。

 もうひとつの提案としては、札幌脱出、地方に移住。あるいは両方を使い分ける二重生活。地方は人口減で自治体が移住者を募集している。これはチャンス。かつては農地を取得することはきびしい農地法の適用もあって難しかった。今は後継者不在などで売りに出されている農地も少なくないし、以前より融通が利くようになっていると思われる。農地を取得したら最大限自分らしい農的庭づくりができそうだ。

 いずれの提案も「農的くらしのレッスン」のトンネル山が足場になりそうだ。
 トンネルを抜けるとそこは農的くらしの知恵の国だった。

※編集者注;筆者は2007年度「農的くらしのレッスン」を受講中。

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