2009年09月号 / Top
にわにわにわ研
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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090928 統計の旅
文/ナガタ・ま(庭プレス社)

 地図帳なんてものを渡され、どこにどんなところがあるか、気候は景色は食べ物は...、なんて想像にココロときめかせたのは確か中学の時だったか。短絡的に「高校へ行きたくない、世界旅行が良い」なんてことを口走ってから遙かに時は流れたが、つっこんだ勉強するつもりもないくせに地図や統計など眺めると、マズイ、夢遊の幕が上がり始める。

 暮らしの中のたぶん消費といってよい部分、ああいうモノこういう状態(より多くの物資を安定的に確保する)を得たいという辺境(田舎)からの欲望に強く影響力を持ってきたのが所謂先進国(都市)のありようであった。卵か鶏かは別にして、個人も国家もその欲求の実現に向けて働くことが、この時代この国を生きる最大の使命だったと思われる。
 モノはあるからほしい。黒船がやってきたからこそがぜん欲しくなっちゃった。内側から必要が生まれた、というよりも、外から必要はこじ開けられた。
 モノが立ち並ぶモデル(教科書)はほぼ欧米(の大都市)という区域にあり、たとえば旅行といえばまずはそこへ詣でることであって、遊んでいるときですら下(ない)から上(ある)にという指向ははずせないのだった。

 しかし、今どきもうそれはいくらなんでもはずかしい。
 手に入れようとするモノを具体的な生産手段ではなく、札束でと考えるやり方は、どこかへ穴を掘って埋めねばなるまいで。
 先の国会議員の選挙では結果的に負けを喫した前首相が「政権交代がなされると、みなさん、もうからなくなるんですよ」なんちゃって辻説法をしていたが、お店の開き方を間違えてるという印象しか人々に与えなかったのではないだろうか。
 人々は別な“もうけ方”へ向けた模索をすでにはじめてしまった(良かれ悪しかれ)ので、彼は出遅れちゃったのだ。彼はもう少し先を見る必要があった。
 いずれにせよ迷信のジダイは過ぎ去った。

 ならばドースル?が見えていないといわれる。
 幸せの在処、目標とすべき暮らしの姿については、当座の宿題が多すぎてか?総合的に語られる機会が少ない。いや、そんなものはそんなことで良いのかも知れない。俯瞰的にこうだという「見えやすい」構図には大きな落とし物も同伴するわけだし、という思いも浮かぶ。しかし、静かだ...。
 大枠としては、よい王様(王子さま?)捜しはあきらめ、こうだなという方角へと自ら行動する、という必要性は大いに強まったと言える。...が、
 お尻が重くなっちゃったかなぁ(本心ではない)。いまひとつ、と思うのだけれども(あまり思っていない)プリウスで許してね。ほかにもヨイショして高いエコ商品も買うし(オカネがあればね)、みんなで少しずつ良いこと(良いこと!?)をすれば世の中きっと良い方向に行くんじゃない?...なのか?

 行動というもの、それは具体的にモノをこしらえる(あるいは始末する)ということなのではないか。そう気がついたときにはっと目覚める。おう、材料も道具もないじゃないの...。みんなオカネに換えてしまった。シマッタ!
 ま、なんちゃって、であるけれども試行錯誤をはじめる。幸せへは自分の足で歩いて行かねば。
 材料も道具も集めてくる。場所も必要。試行錯誤ってのは実験でもあるのでそこに「実験室」と看板を出す。通りがかりの人は気をつけてね(バクハツなど)、であるし、個人でシコシコも良いけれど「自分たち」という枠組みを多かれ少なかれ意識せざるを得ないから、そういう意思表示も表示に込める。

 ふと気がつく。その欧米=先進といわれるモデル・枠組みからはずれたところに大事なものがあるような“におい”がする。
 はずれた、というか、先進するための評価軸に乗っかってこなかった要素(乗っかったモノはたいがい略奪にあった)が生き延びている場所。実験室で行う研究(フフ)の教科書のひとつは以外とそういうところにあるような気がする。ただし気をつけないと先代のドロボーの跡継ぎをしてしまう。
 そういった場所を見通そうとして背伸びする。伸びたとたんに足元にも目が行くものである。

 統計は数字で現象をあらわし人々に理解を求める(強要する)。ついそれを「理科年表」のように?見てしまうと社会科にならない。数字は意図的に並べられている。数字になる前、数字にするための物差しにもきっと意図があるだろうし。
 ま、よい。数字の並べ方を変えるだけで違った世界を旅することができる、ということがわかった。
 データベースから図を起こし、ひっくりかえしたり裏返したり、以下そんな程度のことではある。中学から進化していない、かも。

 GDPの様子。ダントツの合衆国をはじめとしてG8やG20の国々が並んでいる。あとで話題にするカザフスタンという国なんてどうなのだろうかと見ていくと53番目、日本の50分の1くらいの経済スケールということになる。50分の1しかシアワセがない、という話でもないのに、GDPという指標はなにかそのように私たちにせまってくる。
 各々の国はさまざまな領土を持ち人々が住んでいる。人口あたりのGDPとなると、北欧を中心に先進のまた先を行くと思われている国々が並んでいる。日本は総量では上位にいるが、分け前不足で「Top 20」からはずれてしまう。
 毎日のニュースでオカネの話は途切れることがない。モノよりカネなのだとアナウンサーが何遍もスタンプを押しに来る。先進国とはこういうものだろうか?

 FAO(国連・食糧農業機関)のサイトにはいくつも興味深いデータがある。
 我が家にもいる山羊くんはどうなのだろうと覗いてみる。
 総量的には中国、インドという大国が制覇する。大国にはたくさん人が住んでいるのでたくさんモノが要るといえばこんなものかもしれない。たくさんのモノを動かし管理するのはたいへんそうだけれど。
 その次から、パキスタン、バングラディシュに続いてたくさんのアフリカの国々がエントリーしている。GDPの数字なんか意味がないくらいの「地位」にいながら、このラインナップはなんかすごい。甲子園が終わったあとの軟式大会みたいな感じ(でも野球はよくわからない)。
 貿易や戦争の嵐の中で、それでも彼らはモノを作っている、作らないと死んじゃうということでもあるだろうけれど、作っていることは作っている。

 一人あたりの山羊の頭数。
 なんと人口よりも山羊の数が多い国が六つもある。ダントツのモンゴル以外はみなアフリカである。
 過去にアフリカの中心部・タンガニーカ湖畔で数ヶ月過ごしたことがある。山羊は村の中で放し飼いの鶏と同じように居て、そのあたりをうろうろしているのだが、体が小さめなせいかそんなに存在感はなかった。なにかあればこれも鶏同様チョンされ鍋の中にいたりもした。
 GDP単独でというのではなく、多様な物差しで国々のありようが評価されるべきだと考える。そのひとつに、この山羊の頭数(人口あたり)、すなわち「山羊指数」をぜひ入れたい。そうやってオカネの地位を下落させ、その役割にまつわる過大な弊害は早急に弱める必要がある。紙幣は食えないが山羊は「飲める・食える」そして「働く」多面性を備えた優秀な存在であるぞ。交易にも使える。ロケットだってイケル。何頭に換算されるか知っちゃいないけれど。

 次いで山羊のミルク。
 ドミニカがダントツ過ぎるので数字をチェック中。気になるのは総量で5番目、人口あたりの生産量で4番目のギリシャ。フェタ(チーズのオイル漬け)は山羊や羊と聞いたことがある。...行かねばなるまい。
 総量で5番目のフランス、これはチーズである。ワイン同様フランスのチーズ生産は巧妙だ。地域的に特徴のある生産を守り育てブランド化させることによって結果的に店頭にはバラエティに富んだ製品が並び、人々を楽しませる。チーズの値打ちは製品によるけれど総じて高価なのは山羊、次いで羊、あと牛という順だったかと思う。
 すぐ隣なのにスペインやポルトガルではそういったこだわりはお目にかかりにくい。おいしいチーズができればいいでしょ?とでもいう具合に原料乳は山羊と牛あるいは羊と牛などというようなミックスものがかなりあり、店頭にどさっと積まれる。フランス同様人々の日常食でありながら、そのありようの違いがおもしろい。

 羊はどうだろうか。
 飼育頭数の総量は大国が多くを占めるものの、山羊同様アフリカ諸国でよく飼われている。大国の構成は山羊と少し違っている。オーストラリア、ニュージーランドあたりは肉かなということがスーパーへ出向けば(行かなくても?)わかる。イラン、パキスタン、イギリスといったあたりからは毛の加工という工業の伝統との兼ね合いが感じられる。むろん食べてもいるでしょうけれど。ヨーロッパの外周部や中東などの分布というのも山羊とは似て非なる羊の歴史性が表現されているのかもしれない。
 ただ、人口あたりの頭数で見ていくと、少なくとも上位に大国の登場は減る。
 山羊よりも分布が広い。長く紛争の影響下にあるパレスチナでも羊飼育が盛んなことがわかる。山羊もそうだけれど、羊には生活者の伴侶という趣が強く表現されていると感じる。
 特殊なエピソードとしては、フォークランド諸島。人口3.000人のこの地域に700.000頭もの羊がいるらしい。
 世界で飼われる家畜(四つ足)の飼育数4強は、牛13、羊10、豚9、山羊8(各億頭/FAO2007)ということらしい。日本では評価の低い羊、山羊の重要度がそこでわかる。

 アフリカの人々はミルクをどうしているだろう。飲むだけか、あるいは何かに加工しているだろうか。手元にあるドキュメンタリーの映像(「人間は何を食べて生きてきたか」制作NHK1985年)にはベドウィンのテントでこしらえられる羊のチーズ作りが取材されている。革袋の中で発酵させ、たくさんの塩と共に小さなおむすび状にしてからテントの上に並べ、砂漠の強烈な太陽光で乾し上げるというものだった。類似のものと思われるモンゴル産のものを食べたことがある。白い固まりは骨のようでもあり、かじると粉状のかけらであって、味は確かに乳製品と感じたがおよそ慣れ親しんだねっとり型のチーズとは距離があった。
 山羊ミルクは戦後あたりの記憶として「なつかしい」という人がまだいるが、日本ではほとんどなじみがないのが羊のミルク。チーズに加工されれば有名なロックフォールやペコリーノで、ははん!と気付くはずだけれど。
 北海道は羊の飼育に向いている風土と思われるが、農政側にまったくやる気がなく、したがって公的助成などない中でわずかな個人農家ががんばって飼育を続け肉を出荷している。こんな状況下では羊のチーズなど出現しようがない。残念なことである。

 コメを食べるんだから日本人。その日本人が住むのだから北海道もコメであると、明治以降の北海道開拓は田んぼの整備・拡張と稲の品種改良に多大なエネルギーが注がれた。いま広大に田んぼが展開する石狩平野が、ついこのあいだまで広大な釧路湿原よりもさらに広大な湿原だっただなんてすでに古文書ものなんだけれど...(なぜか?!)。
 北海道開拓使が招聘した欧米の農業技術者たちは(日本の食習慣を鑑みず?)この新開地に向いているのは畜産(酪農)と畑(ムギ)だよという判断だったそうだが(すぐれた見通しだったと思う)、それじゃ日本にならないよということで、一部を除き官も民も本土化に精出した結果、見事に日本になってしまったのだった。
 私的にはこの日本標準に異議がある。昨今の温暖化とかでコメ産地が北上しているという逆風もあるのだが、北海道は日本でなくて良い。というか、国土は金太郎飴のように一様ではない方が元気なのだ。
 北海道のあちこちで営農不振で使われなくなった農地が増えている。そこへ鹿や熊が古巣のように戻ってくるというのも悲しいやらおかしいやらである。ただ自給農の展開にはチャンス到来というふうに考える。そこに麦を播け、山羊を放て、という気分である。ついでに日本を返上しようではないか。

 さて麦の生産はどうなっているか。
 総量的にはG8、G20組がそろい踏みしている。例外はいうまでもなく日本。つっかえ棒がないと立ってられない。
 生産量を人口あたりに換算すると構図は変わる。
 仮に小麦中心の食生活をやっていこうとするに、1人1日あたり400グラム(原料小麦換算/コメで約3合の計算)のパンを食べると仮定する。すると年にだいたい150キロの小麦が必要となる(畜肉などにあてにする分量を加えればもっと多い)。
 カザフスタンはこの6倍、フランスでも3倍もの生産を行い、余剰分は輸出となっている。カザフスタン、トルクメニスタンそしてリトアニアやウクライナなどは旧ソビエト連邦の大穀倉地帯でありながら、GDP的には低いランクを余儀なくされている。
 単に農業生産をいっしょうけんめいやっていても儲からない。だんだんそれは工場の様相を呈し、営業能力優秀な経営者が登場して彼(だけ)がもうけていく、ということが想像できる。
 人口あたり150キロラインを突破している国は30カ国を越える。
 3倍、6倍の生産を担う農業者はどんなふうに自前の作品(産物)を感じているだろう。どんな気分でそれを口に入れるのだろうか。

 各図は“Top20”と称してまとめてみた。整理の仕方は一般のものと違っても数の羅列ではある。数の背景は多様であると思われ、リサーチを自分でしない限り軽い印象・感想みたいな反応にしかならない。
 しかしながら、人口あたりの生産値が高い国々の様子、とりわけ人々の暮らしの様は気になり、行って見たい・確認したい(もっといえばつながりを持ちたい)と思うことしきりである。ぜんぶはとてもとてもなので、志のある方と手分けしたいもんだなと思う。
 彼らが自分の将来をG30だかG50だかに位置づけるのか、それとも違った羅針盤を働かせようとするのかは彼ら自身が決めることではあるけれど、少なくとも、きっとそれなりに機能している彼らの生産現場のただ中に、私たちにとっては未来の大事な用具が横たわっているのではないかと、ドロボーのなり損ないは夢想する。

※図版;鮮明バージョン(pdf ; 128KB)

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