2009年12月号
にわにわにわ研
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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091228 農的(自給的)精神
文/ナガタ・ま(庭プレス社)

 “カラスのカーカー”放送が蔓延っている。

 “カーカー”が満ちあふれている場所に長くいると、たとえウザイと感じていてもだんだん慣れてくるようだ。“カーカー”放送はスイッチを押しさえすれば流れてくるので、簡単で便利なもののような気にさせられる。なんだかコンビニと似たところがある。雑多のものが平板に並んでいて、必要な人が必要に応じてチョイスする。不必要な人はそれをたいして気にしない。しかも、その存在自体が根本から疑われる、などと考える人はそう多くはない...。
 しかしひとたびそこから距離を置いてみると、まか不思議な世界であることに気がつく。

 たとえば絵画は自分で選び、気に入ったものを壁などにかざる。
 ラジオも、まあ自分では悪くないなと思う形のものを選んで(?)その横に置く。
 ラジオからはひっきりなしに姿形を変えた情報が流れ出る。自動的に。まるで表情を勝手に変えてくれるポートレートのように。いやもっとか。でも基本はおとなしくて、ラジオじたいが暴れ出したりまではしない。一定の抑揚である。「○○町で××ジケンがありました」「はい次は音楽にします」みたいに、ファッション雑誌のページをめくるかのごとく脈絡のなさそうな事項が静かに連続する。気になるものは見る(聴く)、そうでもないものは無視してよい。
 電灯は点けっぱなしにするとオカネがかかる。水道もそう。でもラジオは(微少な電気代以外)無料だ。「もう少しで天気予報だな」とボタンを押し、その前の関心がない番組が耳に入る。
 そうやっておとなしく、何か違和感なくラジオはインテリアの一部になっているかのようにしている。暮らしの同伴者であるがごとく。

 そのラジオというものの存在がえらく鬱陶しいものになってきた、ということである。

 要するにBGMのようにラジオを聴いてはダメなんだろう(テレビは持たないのでその世界は知らない)と思う。なんでか? たれ流しでは耳がおかしくなる(麻痺する、という実感)。アタマも。アレは気に入った絵画などではないことに気付く(当然か)。
 結論から言えば、巨大で数少ない(放送)メディアをそろって皆が利用する、ということ自体がそもそもおかしいのだな。アレは好意の服を着た進軍ラッパであるとわたしは考える。
 遅ればせながら、やーっとそういう事態だということを最近の放送は気づかせてくれる。

 たとえば“カーカー”のひとつは国営FMがやっていた朝の癒しミュージック集。
 多数がその日のシゴトにつこうとしている、あるいは学校で授業がはじまるってタイミングに(いや、そういう人々はラジオを聴いていないか!)オネエさんの夢の中のような猫なで声で「力まないで、リラックスして、構えないで...」みたいな音楽が流される。ガクっと来る。好みの音楽も混じって流される。だが、なんじゃこのオンパレード。でも行進曲よっかましか?
 (これは最近別番組に替わったようで一安心。そちらも「とてもじゃない」ものだが。)

 いまひとつは、やはり「第1」という国営ラジオの「私も一言!夕方ニュース」。「一言」のあとに「!」マークが入るとは、聴いただけでは知らなんだ。これもキモイ。
 毎日このニュースの始めに「みなさんと一緒に作る番組だ」とアナウンサーが言う。
 「みなさん」って誰?
 聴いてると「ファクスが届きました。メールが来てこうです。いろいろな意見があるんですねえ。」
 誰から? そう、当然ラジオに耳を傾けている人々から。
 それが「みなさん」?!

 地震の緊急放送の表現は偉そうでイマイチだ。
 「地震がありました。震源地は○○、マグニチュードは△△、津波の心配はありません。」と宣う。
 緊急だから余計なことは言わない、ということだろうか。
 でも曲がったへそは納得できないぞ。「ありません」は誰の言か。放送局か?
 「ないということです」に改めよ。4字増えるだけじゃないの。

 ヨノナカにすでにある(かのようなものを含め)支配的な事項は、すでにあるものとして機能する。機能させようと巧妙に画策される(ばかりではなく拡大が企てられる)。昨日まで“カーカー”だけれどそろそろ“ニャーニャー”にしよう、みたいな工夫(デザイン)なども施され、いかにも受け入れやすい姿になった情報が流布される。
 自主的に情報にふれる、ようでいて、じつは彼方からの指令を自ら受け入れている、という構造がしっかりそこには成立している。わたしたちはそういうトレーニングを日々(前向きに!)受けている。
 天気予報が「今日は雨」の次に洗濯物をどうしろ、折りたたみ傘を持っていけ、とアドバイスすることを笑って受け入れている場合ではない。予報は「雨」だけで十分なのだ。
 これはなにもラジオの世界だけではない。銀行や自動車会社もそんなものだと思われる。
 何か...恐竜なのだ。

 ドキュメンタリー映画の監督・松川八州雄さんがよく言っていた。「これこそ事実(ノン・フィクション)です」という表現は警戒すべきだ。社会の事象を切り取り作品に仕立てたときにはそこにかならず制作者の主観が注入される。「客観的な事実」なんてものほど信用にならない、と。

 「みんな」で放送をやろうだって!? それは必要のないところに必要をねじ込む組織延命のチューブ以外のなにものでもない。それどころか、人々にたいし一定の方向付けを強要するにこにこマークの銃といったところだ。
 勢揃い、前習え。みんなできていますか?

 「おれたちゃこういう意見を持つ」とまず言うところからしか会社組織(ラジオも)の存在意義はない、と考える。のっけから「みんなで」を主張する者の真の姿は物陰に隠れがちだ。そこが問われずに済む社会は相当にビョーキが蔓延している。深刻だ。
 感染のチェックを怠らないようにしなくては?
 そんなんじゃない。マスのチカラに頼り切らない、自分流の魅力的なフィクションを“対抗的に”立ち上げる必要が絶えずあるということだろう。口にマスクをしたりして彼らを相手にしている場合ではない。マスクは相手に渡し、こちらが感染源にならなくては。

 「私たちはビョーキです」
 いやあイイかもぉ。
 電波を我らに!。

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