2008年3月号
ニュース
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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080328 農的な暮しについて
/ナガタ・ま(庭プレス社代表)

●雪下ろし・今年は多くなかった/0802

 インタビューされた。

 まず農的(のうてき)って言葉だけだと伝わりにくいって。
 そうだな、「農」は普通は農業であって「業」を取って言うことが少ない。農文協の本とかをよく見る人だったら「のう」って聞いたら「農」であってきっと「脳」とか「No」とかじゃないけれど、さして気にとめない人だったら「?」でしょう。

 「農的」は言い換えれば「自給的」が有り様として近い。対比的には、日本で多くの人々が今いろいろ「買ってきて並べるだけ」に近い暮らしぶりになっていて、それだけならともかく、そういう状態をおぜん立てするために世界中至るところのヒト・モノを動員しまくり(ひとこと、グローバリゼーションで済む説明か)、そこでの支配・抑圧の構図がかくされた中で買ってあぐらをかく(したがって気持ちよい)という役割を演じているわけだが、どうもそれはマズイぞと行動に出るときのひとつのパターンと言っていいだろう。
 パターンはいくつかある。たとえば「スロウ」「エコ」「癒し」などといったフレーズにあふれるモノ・情報を積極的に受け入れて自身を維持しようとしている人々も多く見られる。食育こそがと頑張る人もいる。まず、マズイぞマズイぞ行動しよう、はいいんだろう。受け身・欺瞞とモンクもあるがまあ良い。少なくとも彼らは仲間だろう。
 彼らに言うことがあるとしたら、その行動に独自のビジョンがあるのか、ということである。世の中はおせっかいにも「あーしろ」「ここへ行け」だらけであって、「買ってきて並べるだけ」同様選ぶ自由でしかない世界を強要される。しかもそこにはそれなりの「快」が用意されているから、そこにとどまる限り大勢は変わることがないに等しい。独自の、と言ったが、言い換えれば主体的な、あるいは根源的なということだろうか。想像力に欠ける自称良心ほどコワイものはない。

 あんたいつからこんな風(農的?)になったのか、と質問される。
 たとえば生活者=消費者って考えはダメだよね。安心して「選べる」モノをちゃんと用意してよ、って言う(頼る)ばかりだもの。はじめっから垣根を身の回りに立てて立てこもっているに等しい。それでは君の安心は世界中の安心にぜーんぜんつながっていかない。引きこもりもいいところ。年金や貯金がこれだけ揃ってだいじょうぶ、も、世界の幸せにつながっているってマジ思うか?
 「農的」は農業のひとつのエッセンスなどではないのです。
 それはね、世界を根源から見据え・変えるための本質的な思考・行動なのデス。

 「土いじり?いいわねー、あこがれるねー。でもね世の中いっぱい問題あるでしょ?それに関わるだけで手いっぱいなのよ。自分の幸せは二の次ってくらい土は遠いなー。」とさる革新の政治家はおっしゃる。
 いんやまあ、なんと笑っちゃう。そんなんじゃもう君を「選んで」やらない。

 そうそう、ビジョン。
 それはひとつの場としてあるだろう。モデルとしての場(面)。
 ...そこはもしかして“どんどんあたらしい友だち(関係性)が生まれるような(要素を持った)動的でファンタスティックな場所”だ。ニンゲンばかりじゃなく、山羊とか兎とかリャマとか畑の作物とか自然とかもいろいろ一緒の。

 たしか誰かがそれをユートピアって言った。
 そう、「農」こそはユートピアを志向する。
 そして、いつかどこかに、ではない。たったいまここに。

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