2008年6月号
ニュース
発行;庭しんぶん
庭プレス社
e-mail

080628 技術の時代
/ナガタ・ま(庭プレス社代表)
 人のとる行動には早すぎたか遅すぎたかしかない、という達観には至れない。それは結果論であり、だからどうなんだ、である。

 公共のメディア、特に国営放送の司令塔性は生まれながらにしての宿命である。やり玉に上げるには小物だが、たとえば天気予報。気温が上がって乾くから洗濯日和だとか降ってなくとも傘を持って会社や学校に行けとか、おせっかいなことだらけである。実体は横に置き、いかにも平和にしてやってるぞーというメッセージが、知らず知らずのうちに人々に隊列を組ませ「前倣い!」を強要する。わたしはテレビは捨てたんだがラジオが残っている。いまそれも捨てたくなっている。
 先の東北の大地震では、揺れたとたんに流れたニュースのアナウンサーの口調が高揚していてとてもたまげた。○○町役場のナントカさん、被害はどうですかあ?ああまだわかんないんですかあ?なんとかですねえー状況がわかり次第連絡をくださーい!。戦争中のラジオ報、あれも同様に高揚していたのだろうか。ええ?バクダンが落ちましたかあ?何人死んだんですかあ?みたいに今どきのリポーターは叫ぶのだろうか?。

 「事件」がメディア(とりわけ公共の)にのったとたんイヴェント性を強く持つものとして自走しはじめ、他の(どーでもいい)出来事と並列化され消費される時代に入ったことを強く印象づけたのは湾岸戦争(91年のアメリカ軍によるイラク空爆)だっただろうか。インターネットを始めとする膨大な量の情報流通が真にはミソもナントカもいっしょのゴミの山なのにもかかわらず、身の回りに物があふれていて豊かな環境の中にいるかのような錯覚を人に強制する。なんでもあるしなんでもアリかのような誘惑の風があちこちの送風口から送り出される。体中アンテナの若い人たちにはたいへんだろうなと思いつつ、自分自身も枯れて仙人でもいいはずなのに惑う。
 なんでもアリのその中身は実は薄っぺらで、「なんでも」であるかのようでいて特定の物であるという見方ができる。それは第一義的に“消費されねばならない”という経済的な任務を背負っている。物がぼやけて見えてしまう老眼(老頭?)のおかげでそういうスタンスに立てる。「なんでも」に課せられる期待は本来(というべきか)その世界からすら大きく逸脱しがちな想像力の産物であるにも関わらず、現代の人々を捕らえるその質はバーコード違いのカップ麺ほどの差異しかないではないか。にも関わらず、あれも喰ったしこれもイッた、次は何かなーと待ち受ける。繰られ方もはなはだしい。

 ヴィジョン、というものが棚の上で埃をかぶっている。時々出してきてかき回してやらないと使い物にならなくなるだろう、と思ったりする。何をすべきか、どの方向へ歩みを進めるか、は社会的にだんだん語りにくくなっている、と感じる。危険だ、と思う反面、そんなものお札(ふだ)のように飾り奉ってもきっと良いことはない。遠くへ石を投げ着地点に向かおうとする、という旧来のイメージから抜け出さねばならないのかもしれない。今は投げるのではなく抱えて進むと言うべきだろうか。そうだとしたらまるでウチのペットのリャマとの散歩みたいだ。手綱を引いてるつもりが追い越されて待ってくれぃに早変わり、かと思うとテコでも動かなくなる。

 時流に抗する側から「も」聞こえてくるのは、あれはこーなんだよねーこれはあーなんだよねーという評論めいた話題。いまは誰もが批評家。ねえいったいだからどうなんだ?!

 わたしたちにとって新たな技術の時代なのではないか、と考える。
 評論・批評も大事だけれど手が動いていない、体がついて行くように考えていないではないか。手足を動員するには技術が必要になる。おうむ返しに同じことを口走ることは容易だが手足はそうはいかんぜよ。
 「お湯を入れて3分」や「チン」の時代性は人々から技術(者であること)を奪った。奪われたのにうれしそうに泡まみれになった。いまさらそれを返せー!もないだろう。奪われた、と記したが、培われなかった、がきっと正しい。技術は囲い込まれ主流(司令塔の枠組み)に奉仕する形でだけ統合化され、そして管理化が進行したわけである。

 農的というやわらかい表現を用い自給性の高い生活・文化をわたしたちは求める。そうした動きに技術というものが欠かせないのは自明なことである。とりわけ「わたしたちなりに」というモノサシに基づくものが。
 時代は推移しかつてより多くの人がサスティナブルとかオルタナーティブという形容を唱える。農的なんてのも同じようにマイノリティを脱し市民権を得つつあるのかもしれない。世界をてっぺんで動かすお歴々がリゾートの○×湖に顔を連ね会談する中にもこれらの言い回しは登場していたようである。だが気をつけなければいけない。彼らは人々に何かをしてくれようとする。そしてわたしたちにだからどーしなさい(暑かったらネクタイをはずしていいよとかナマ脚でいいよとか)と「指令」するのである。その原因の過半が彼らがかつて(いまも)「してくれた」ことであるにもかかわらず。

 司令塔から環境問題についての対策提言を付託された専門家会議の代表の報告として「企業が行っていることだけをやり玉にあげるのはいかがなものか。企業活動の恩恵を受けその必要性を促しているのは市民であるから企業だけが悪いとは言えない。市民は企業批判ばかりしてないで問題への能動的な対処にもっと協力すべきである。」というようなことがラジオニュースでまことしやかに流される。ごもっとも、スバラシイかも。でも彼ら勉強が足りない。マーケティングの学習まではしなかったか?

 わたしたちはラジオのスイッチを切りつつ(アンプラグド!)、わたしたちの技術開発を急ぐ必要がある。

庭プレス・トップへ