2008年10月号
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発行;庭しんぶん
庭プレス社
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081028 エコビレッジ的なものをめぐって
/ナガタ・ま(庭プレス社代表)
■エコビレッジはユートピアか?

 エコビレッジ(的なもの)は現代社会のさまざまな課題に人々が能動的にアプローチする場として有用だとはまず思う。でもユートピアと“まで”言ってしまうこと(ビオシティ2008/No.39)にぼくはやや違和感を持った。「エコ」に方向づけが必要なことは理解するけれど。

 一方で「エコ」が持つ“ダイエット”の要素あるいは癒し的効能はその本質の一部にすぎないが、今を生きるための健康アイテムみたいなものとして肌触りが良く、多数の(従順な)人々が受け入れる。一部にすぎないその要素が振りかざされ加工されてマーケットにならぶ。人々は熱心にそれらを購入しいろいろな持ち物に振りかけて食べる。

 だが「エコ」が担うべき本質には、社会に向き合いその問題点についてできるだけ本質的なところから批判をし、抵抗・拮抗して行く試行・仕掛け(カウンター・リビング)の存在をはずせないだろう。それがカタチを成せば、自ずから結社的・砦的な雰囲気をかもし出す。否が応でもバトル的要素は避けられないのだ。好戦的ではないつもりなのに...。
 そういう中ではきっとユートピアというものを時々意識する。でもふと我に返ればそれは何光年もの先にあるようなものじゃないかという気がする。はるか彼方の大事なものは神に置き換えられかねない。それも一神教的な、となぜか思う。
 ぼくにはせいぜい“あおいとり”というあたりが身の丈に合っているのかな。諦観ということではない。「いますぐ」にという事象はヨノナカ山のように捨て置かれている。それらをどうするかというときの方角はまさかひとっ飛びに“北斗七星”では済まされない。個別具体的な現場での対応技術が試される。そこに過剰に神様は登場しない方がよいと考える。

■でもエコビレッジ「のようなもの」をつくろう!

 他者との関係において、過剰に搾取されず抑圧もしないで生活していく場としてビレッジ(ムラ)のような枠組みはぼくなりにほんのり見える。能動的な複数で協力し合い生活を試みる場面はビレッジだかファミリィだか多様に試みられるべきだと思う。そしてそのさ中にいたいとまず考える。
 ただ、キャッチフレーズとしてまずビレッジとかファミリィだとか言ってしまうと、まずはなんでもイイし(なんだろう?)、なんでもアリなんだろう。家形にとらわれればそこに入る暮らしは類型化されがちである。暮らしが消費一辺倒になっている現状が知らぬ間にニョキニョキ芽を出しそうである。

 「たまごの会(1973〜)」はユニークだった。構成員300世帯の食べ物自給をテーマにさまざまな試みがなされた。まったくそれは一瞬大都市トーキョーの空でひらひらする魔法のじゅうたんみたいだった。
 不十分だったことのひとつは生産と消費のあいだにある矛盾への取り組みだろうか。その後の「やぼ耕作団」はこのことについてひとつの答えを出そうとしたまれな例ではないかと言える。だがしかし、作る人・食べる人(≒マーケット)の役割分担・分配を超える試行はまだまだ宿題中である。

 まず課題は“生産”である、と考える。
 ビレッジの志願者に何(物的基盤)をどう作ることが可能か?可能なビジネス・モデルとは?...。
 自立自活のために何を作り暮しをどうまわして行くか、を考える。エコ・ライフは年金受給者の暇つぶしなどではない。種を植えたら芽が出てきて良かった、んではない。そこにはそれ相応な技術が不可欠で、それこそがエコと銘打つのかどうか知らないが「もうひとつの暮し」の要である。たとえばそのための農の技術は現在の農業者が作り上げてきたものと一線を画する新たなものであり、それはそれは耕されるのを待っている。加えて生産のスタイルを上げておけば、共同自主管理(≒シゴトのデザイン)が自明の課題として立ち上がる。それらがぼくが妄想するビレッジ「のようなもの」の根幹的要素である。

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