Tunnel03
 札幌 トンネル山

大屋根パラダイス

1,ぐう話のはじまり

 自分たちの住居を手がける機会があり、そこで考え行動してみたことについてのこれはメモである。住居というひとつの建築について、それ自体あるいはその周辺にあるハードなあるいはソフトな課題について自分なりに検討する時間を持てたわけだが、今も建築中の状態に即し、宿題継続中ということでもある。今の社会に対してなるべくファンタジックな提案になればいいのだけれど、さてさて...。

2,ビニルハウス

 近くの幼稚園が何かの事情でしばらくビニルハウスで運営されていたこと。営農を開始したばかりの知人が結婚式をしたときに、作業場にと建てたばかりのピカピカのビニルハウス内でパーティが開かれたこと。建築家の石山修武が世田谷で自邸計画の進行中の一定期間、ビニルハウスに学生らを配して研究室を運営していたこと。北海道の酪農地帯へ行けば牛舎用の大きなビニルハウスが各所に建てられていて、そのフシギ光景をよく目にしていたこと。などが気になるものとして念頭にあった。
 もっとさかのぼれば、ミシンで縫い合わせて作った大きなビニルテントに送風機で内圧をかけ、中でイベントをいっしょにやった悪い仲間がいたという学生時代の記憶。あるいはまたホームレスの人たちのありようも。
 唐十郎ではないが、ビニルというチープで不思議な素材をどうにか手なずけてみたいという考えが時折頭をもたげた。北国のビンボー家では窓からのすきま風(雪)を防ぐのにビニルを張る。冬が近づけばそのための専用キットがホームセンターに並ぶほどだ。使い捨てのワルイやつとしてのスーパーの買い物袋なんかと違って、こいつは命を守るアイテムであるのに、反面えらく軽い存在であって...、いやそういう談義にはまり込むのが本稿の目的ではない。

 ブー・フー・ウーのように考えてみる。
 住居を作る場合、寒暖、風雨、強い日光、あるいは外敵などから暮らしを守ることが目的となる。その役目は壁や屋根で、その数種の目的に添ってそれぞれに材料を選択し組み合わせて対処する。たいがいそれらは直接に積層され、近年になるほど薄くなり効率化がなされた。
 ふだんの建築の仕事では、この基本を守りながらローコスト化していくのにかなり限界があることがわかっていて、それを越えるダイナミックな展開はないものか、と思っていた。
 しっかり者のウーが作ればフツーの良品が可能、しかしずぼらなブーが取り組むずぼらなやり方をどうにかサポートできないか?。ずぼらのすき間からかいま見えるのは、あれはどうも未来(社会)ではないのか...。
 そこでビニルと段ボールの登場となる。

 まず大きめのビニルハウスで雨と風を防ぐ。夏は中は暑いから裾をたくしあげて通風する。日よけのシートも必要だろう。これは構造上いくらでも長く作ることができる。山を越え丘を越え、である。その中に段ボールで箱を作り中で眠る。段ボールはスーパーの廃棄物でよい。幾重にも貼り合わせると断熱性が増す。糊とカッターナイフで作れる住居なんてステキだ。ビニルと段ボールの箱の間は適当に距離を置き、地面には植物を育て、兎や山羊などを飼う(段ボールをかじっちゃうかな)のだ。ビニルの中にいろんなカタチ・カラーの箱が並ぶと楽しいだろうな、と思った。また、空から見たときにミミズがはい回っているかのように、こういったシェルターが広域的に点在・偏在している姿も想像した。

3,大屋根

 ビニルと紙ではコワイ、とパートナーの反対にあった。簡単に穴が開けられるようでは安心していられない。面白いが却下。
 そっか、では次の手を、が実施プランとなった。先のビニル&段ボールのプランからタネがこぼれた。

 材料や形態から少し話はそれるが、制作は友人知人でしようと思った。したがって条件はシロート・毎日できない、そこを考える。じゃあ妥協して業者に屋根だけ作ってもらおう、雨・雪がそれで防げればいつでも好きな時に工事ができる。
 屋根、これもビニルハウスほどきっちり覆いはしないがシェルターである。まずこれがあれば“下”の自由度は上がる。スタジアムとか何故か大阪万博のお祭り広場とかをイメージした。
 大きな屋根に守られて下(の箱)はずぼらが可能になる。横なぐりの雨や吹雪の頻度はそう多いわけではない。屋根も“覆う”機能だけだからなるべくチープに作る。でも丈夫に作って土を載せると柵なしで兎が飼えたりする。
 箱は屋根の下の空間をきっちり埋めないで、それぞれ適当に距離を置いて並べ、間にはやはりトマトやレタスが植わると具合がよい。そこはまた農家のかつての土間や下屋(げや)のような用途としても有用だ。“半外半内”の空間の役割はそれ以外にも多くあるだろう。
 箱は段ボールとはいかなくなったが軽快なもので事足りる。一応断熱・気密を考慮し、合板と断熱材でサンドイッチ・パネルを作ってプレハブみたいに組み立てた。厚さは75ミリほどのペコペコなものだけれど、イヤになるほど長持ちするかも、という実感である。
 箱はとりあえず必要なだけ作って、あとはテキトーに考える。大きなクルマを付けて屋根の下から出したり入れたりも面白い。小規模なものなら鳥籠のようにぶら下げることもできる。また大屋根の下にカーテンのようにネットを張り巡らすと大きな蚊帳ができる。

4,ハウスをつくる

 こうやって住居を作り使っているプロセスは、自分の感覚の中にいわゆる単一家族のマイホームとのズレをこれまで以上に生んだような気がする。むしろそうしたかったからかもしれない。
 家族としての固定的なまとまりには気後れがする。その運営を自分たちのためにやってんだかヨノナカ(体制)のためにやってんだか、無意識にそうなっていくのがこわい。そこで守られるものよりも排除されるものの方が気にかかる。今の住居(ホーム)にはくつろぐとか帰ってホッとするとかという消費行動しか社会は要請していないわけで、その消費たるやブクブク肥満し身動きが取れなくなっていることを強く感じる。
 そんなイエなんかやりたかない、自分のこととしては。なるべくそこへ行かない(行けない)ように仕組まれた装置こそが建築のリアルな対象として立ち上がってくる。

 でもカゾクをやってる、パートナーがいるじゃないか。どうするの?
 いっしょに働くためさ!

 人生楽しいのは、温泉につかったとかうまいもの食ったとか、じゃない。それは素敵な労働にめぐり合うことだ。
 それは世界のこんがらかった歴史がきっと教えるところでもある。
 そのトライアルのひとつが「ハウスをつくる(そして維持する)」ということではないか、と考える。
 ハウス、それは庭(=ガーデン)とも言っていい。ここからここまでの場所を自分たちが責任を持って運営する、そのことによって自分たちが生きていく、そういうこと、そういう労働空間(バーチャルな様相のレイヤの重ね合わせも含め)の単位。
 そこを運営すること、そこからネットワーキングの触手を他に延ばすことを通じて、労働するということを対象化する新たな試みがさらに誘引されていくことに期待を持ちたいと思う。

 “自分たち”とは誰か、が課題となる。構成員の枠組みがはじめにありき、ではない。“面白い”労働こそが新たな“集合”を位置づけるニンジン(エンジン)となるだろうという気がしている。

 庭で(プランターでも)自分が育てたトマトを口に含むことは、こういう場面にもつながっている。
 庭人(にわびと=Gardener)たれ、ということではないか。

2006.01.17 永田ま・記