Usso800_0508

雑記帳

050831 ミュゼット

 林間学校みたいな連続講座に加えて50〜80人のパーティが数回あったり、8月はにぎやかなトンネル山。後半それをしめくくるように最近知り合った楽士たちが練習と称してやってきました。しっとりとした雨の中。彼女らが演る“ミュゼット”っていままで縁が薄かったのだけれど、時折うねるような身体の動きをそそる展開がすぐ好きになりました。
 “ミュゼット”はもともとはバグパイプみたいな楽器(キャブレットの俗称)でフランス中央高地オーベルニュ産。300年前くらいに貴族たちがこれで牧歌的なダンスなんぞしていたらしい。近年パリに移動したオーベルニュの人たちがカフェを経営しそこで週末になるとこの音楽でダンス(BAL=舞踏会)をはじめたとのこと。その後すぐにイタリアからの移民がアコーディオンでキャブレットのパートを引き継ぎ、ジプシーのギターなどがミックスされ、それをもって今のミュゼットの基本形とするのだそうです。
 カフェでダンスっていいなって映画「interMission/邦題・ダブリン上等」見て思いました。若い衆がおばさんをゲットしにいくあやしいシーンですが、酒があれば音楽があり身体も動かせば“たが”が外れて高みに立つのと違う視界が開ける(こともある)と、言い訳じゃなく。課題はそのはずれた“たが”が街に流れ出ていくかどうかですけれど。
 美しくおいしいオーベルニュ。チーズも(薪窯の)パンもこの地域にインスパイアされるものがぼくには多かった。パリの人に言わせればビンボーど田舎。山あり谷ありで農的生産性は高くないのでしょう。でも独特の気風は育つ。ピレネーとかバスクとかの人々の気概と共通するものを行ったときに感じました。ナチスへのレジスタンスがいちばん激しかった地域とも聞きますし。
 山の“山城性”ってものがありましょう。他と少し距離を置いて独自に守るべきものを育てる、というような。
 正直に科学者であろうとしたら因習と対立せねばならなくなったガリレオみたいなもんか、と映画「Kinsey/邦題・愛についてのキンゼイ・レポート」。確かに、科学者という商売をやっていなくとも科学の視点(教養?)は大事ですよね...。
 山城でぜひ科学的展開をと思います。


050810 戦没者

 老いたクルマがそれなりに復調してもどってきたら、こんどは七面鳥のチビが足を痛めて立てなくなっている。そばにおいて介護状態となった。はじめはトロンとしてこりゃダメ状態だったのがずいぶん活発に動くようになった。あいかわらず“ほふく前進”ではあるけれど。なにが功を奏したんだろう、ベーコンの脂身なのか、ネギのみじん切りなのか...。もりっとウンコをたれ前向き。車イスかなぁ。

 老人党の御大が“戦没者”という意味には民間人は含まれていなかったのだということを“発見”してたまげたというので(「ちくま」2055年8月号)、ぼくも辞書を見てみた。広辞苑(第2版・昭和50年刊〜フルイね)には“戦没”として「戦場で死ぬこと。戦死、戦傷死及び戦病死の総称。」と確かにある。角川の漢和辞典(昭和53年刊〜これもフルイ)では同語が「戦争で死ぬこと。」とまずあるが続けて広辞苑と同じ記載となる。後者のほうがやや広義ではあるものの、これはおもに戦いに出かけていった人=兵隊のことであると“読む”のが妥当だろう。ぼくもたまげた。よく見つけたなぁ。

 戦争の犠牲になった、カワイソウ、は巻き込まれた民間人だけでなく兵隊にも言える。イヤイヤ出かけて行った人が多数いるだろうから。ただ戦闘の当事者どうしが相手の顔色まで確認するわけがなく、ドンパチやらざるをえないものどうしの組み合わせが伝統的な戦争の基本構図ってもんだ。相手を倒す任務が兵隊なのであってそれ以外のなにものでもない。兵隊のシゴトはヒトゴロシである。
 9条の緩和!は戦争の基本構図を容認するということである。右も左もそれを言い始め、お先真っ暗である。戦争の予定を考える暇があったら(なくても)戦争じたいの無力化をこそ構想すべきである。それはまともな政治家の最重要任務である。

 困ったことにピストルやナイフ、戦車や軍艦がなくても戦争(同様なこと)はできる。目前で血を見なくとも相手は倒せる。戦後「平和」のプロセス、高度成長の背景にはせい惨な人柱が見え隠れする。戦わなかった平穏な日々?ノー、戦ってきたんだ。戦い続けているんだ。
 私も戦う国家の否応のない一員=兵隊であることを要請され(てい)る。兵隊には業務上の責任がついてまわる。
 戦没者になんぞなりたくない。
 ならないためのシゴトを“民間人”はこなさなくてはならない。