060118 庭協会5
“やぎや”の料理チョーが冬休みをとり関西へ出かけて行った。80歳を越えてもなお現役一人暮らしの母上とどこかへ遊びに行くつもりらしい。
彼女の不在中はテーブルに載るお皿の数が減る。かけ出しでも自称でも私たちには料理チョーである。こんな組み合わせが?と思えるものでも、なんとなくお行儀良くおなかにおさまる。そんな不思議なパワーをこの人は身に付けた。
もらいものが多いお正月明けで一応食材はより取り見取りだからなんとかなるかと思ったが、交代要員としてはわたしの技量は不足だった。連日の“合宿所”の食事づくりをがんばっているうちにくたびれて、今夜は、えいメンドーだ、どこかに食べに行こう、ついでに映画も見るかってわけで、チビたちをクルマに満載にして(毎度のことながら佃煮みたいだよ)圧雪の山道をそろそろと降りる。
北陸の積雪がとんでもないことになっているらしいが、こちらは平年並みか。街の中心に向かって雪をいっぱいに積んだダンプが走っている。そう中心に向かって。大通り公園での雪祭り用だ。この街の雪は出したり入れたりタイヘンだ。
雪祭りか...、新しい年になったと思ったらもうそんな時期。料理チョーの帰還ももうじきだ。
この間の大みそかに、こんなふうにして知り合いのシェフがやってるレストランに出かけた。ウチの料理チョーが「そんなことないよ。」って言うが、そのシェフは彼女のセンセーであるとわたしは思っている。驚くほどのキャリアを覆い隠すような地味なしつらえのその店のこれまた地味な料理が実はスゴイ。そして、おみやげにと持参したこちらの(自信作の)シェーブルやパンを手に取って「ま、いいか。」と絶対に言わない。「まわりを気にしすぎじゃありませんか?」とか「くたびれてんじゃないですか?」と言ってカライ点をつける。こんな人をセンセーと呼ばずになんて言おう。
そのセンセーが“おもしろいから”という理由で(なんど聞いてもそれしか言わない)チビたちを食事に呼んでくれる。大みそかで3回目。
アラカルトの正規の料金を払うのだが、量も内容も倍くらい。顔中に料理をくっつけながらにっかにっかしているチビたちを眺め回して彼の方がもっとにっかにっかし、こんな食卓の用意ができることを光栄に思う、とスピーチなんかする。デザートはさあタイヘン。それぞれ何種類ものシャーベット、焼き菓子、果物のコンポートなどをワゴンにぞろりと出してきて、ひとつひとつ説明し好きなのを言うようにとチビたちは指示される。緊張したのか初回はひとりひとつだったのが、そのあとは取り皿にめいっぱいたのんで目を白黒させている。その横でシェフが豪快に笑っている。
いっぺんシェフとポルトガルの田舎を旅したことがある。わたしたち夫婦が彼のフランスなまりのポルトガル語や料理の見識をあてにしたのと、彼ら夫婦がわたしの運転をあてにしたという気まぐれ旅行だった。
ある村のレストランというより食堂と言ったほうがふさわしいような店に入ると、10人ほどの地元の人たちがいい加減に盛り上がっていた。わたしたちが隣の席に付き、彼らが食べているのと同じ兎のシチューが食べたいとウエイターのおじいさんに言うと、事前の予約がないと出せないとつれない返事。それを耳にした隣の席のおじさんがすっとシチューの大皿を私たちに差し出した。遠慮のポーズなんか無視してぐいぐい皿を押し付ける。次にはその横のおばちゃんが大きなワインボトルを持ち上げて「ウチらの村のワインを味わって行きな。」って。席を移ってこいという申し出はなんとか断ったが、たまげたのなんのって。料理もワインも私たちが口にするたびにいちいち確認して「どうだ、まいったか。」みたいな笑い顔の村の人たち。
彼らが先に引き上げて(ほんとうにまいった。みんなで合唱しながら店を出て行ったんだから。)静かになったテーブルで急にシェフが不機嫌な顔をし、わたしを見ながら言った。「Nさん、日本にこういうのあると思いますか?。ボクは料理を作ってお客のテーブルに出すことにかけてはうんと自信は持っている。けれど今みたいな楽しい場面は日本にはまずないし、ましてや料理人のボクに用意できるものじゃないんですよ。いくら料理を上手に作ったってね、それは“食べること”の半分にすぎないんです。日本のグルメってねウチの店にもそういう人がよく来るけど、なんかほとんど勘違いしてるんですね。半分以下なんですよ!」
シェフからチビたちへのこのプレゼントの理由は彼らがかわいそうだからではない。きっとそのにぎやかすぎる食卓に一瞬あのポルトガルの食堂の空気が流れ込むからだろう、とわたしはにらんでいる。
食べきれなかった料理のパックが入った紙袋に「おみやげですよ。」ってその日の新聞が差し込まれていた。わたしたちが新聞をとっていないことを知ってのことだが、その一面のコラムに4月に亡くなった高田渡のことが書かれていたからだろう。
渡さんは詩人だった。ある意味、日本で最後の吟遊詩人だったかもしれないと思う。わたしとそんなに深いつきあいはなかったけれど、札幌で主宰したコンサートにはるばる来てもらったとき以来、相応の交流があった。そのコラムは渡さんの人となりや仕事をさらりと書いた、とりたててメッセージ性の強いものではなかったが“この新聞が2005年を渡さんで閉めた”ということがたいへん大事だと思われた。(そういえばシェフは渡さんに似ていなくもない。)
“閉めた”ということで印象が強かったできごとがもうひとつあった。毎週土曜日朝のラジオ、ピーター・バラカンのDJと選曲を楽しみにしていて、ちょうど2005年最後の放送が大みそかにあったのだが、番組のおしまいに流したのがデバシシュ・バタチャルヤによるインドの伝統音楽の色濃いものだった。西洋音楽ではなく、ということに彼がなにを意図したのかは不明だが、わたしには勘ぐりたくなる点だった。
街の中心にある地下駐車場に車を止めるまで、ごはんが先か映画が先か大騒ぎしたのに決まらなかった。結局はデパ地下でパンとチーズなどを買って映画館へ行きロビーで食べることにした。
チビたちをこれまで何度となくお店での食事に連れ出した。街の様子がわかるにつれリラックスし外出を楽しめるようになってきていたのだが、このごろになって“食べること”については出かけずに“やぎや”がいいのだと口をそろえるように言う(例のシェフの店は例外だって)。理由は“はっきり言って他のはおいしくない”のだそうだ。マジか!
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