Usso800_0611

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061130 暮らしてはイケナイ

 またひとつ新しいショッピング・モールができて、映画に行く途中に覗けばちょっと洒落たグッズ〜文房具やキッチン用品、子育て用具などが買えるようになっているのだった。さあクリスマスだ、買おう買おう、なんだね。
 でも気分は、みんながんばってね、こんなにあるんじゃ買わない、もうイラナイ、である。
 そこに並べられている商品は一様に疲れているように見えた。あれもこれもみーんな知ってる。雑誌に出ていた、ネットで見た。モノに触れる前にすっかり情報は行き渡ってしまって、現物がすでに色あせてしまっているのだった。

 閉店時刻を気にしながらスーパーに行ったら24時間営業になったんだって、知らなかった。時間は場の活動密度に関係があるのだろう。このスカスカ感、やな感じ。蛍光灯でぎらぎらなのに何かが添加されたような空気が視界を曇らせる。そう社長さん、ほんとにヤな感じだ。

 おかしいのは、気がつけばそこいらに並べられたものがほとんど不要なものらしいということだった。圧倒的にイラナイものばかり。実にそれはゴミとの境界線を漂っている。時間が来たら(「日にち」じゃなくて!)お弁当はポイだし、動きの少ない商品はあっというまに棚から消える。要るものがこの程度だって気がつくのにわたしたちは山のようなゴミを必要とした、というわけだ。

 竹が育たない寒いところにいて「タケノコのように」でもないが、この街にも高層マンションがデデデっと建ち続けている。その巨大さゆえにそれ自体をともだちにするのはむずかしい。むずかしいだけじゃなくそれは本質的にともだちづくりをじゃまする。
 高層マンション、それは存在自体が凶器だと認識する。ベランダ・窓から身を乗り出せばいつだって手軽におさらばさ。自動車は走る凶器。それとおなじ、いや、もっとパワフル。
 包丁を手に持って街を歩けば、人々は散りオマワリさんの登場とあいなる。切れる包丁を持てば料理が楽しくなる、だなんて言ってはみたが、用心深くクルマのアクセルを踏むように包丁もキッチンの廻りからはみ出してはイケナイのだ。が、高層マンションは既に大きくはみ出してしまっている。

 訪れた人がおみやげにとくれた新聞に挟まっていたマンションの販売ちらしを見て唖然とした。「高層、見晴し抜群」とうたわれた完成予想写真には、リビングのテラス窓からふもとの家々、その向こう側に夕焼けの山々。こんなに見えるのかスゴイ。待てよこれは床からのテラス窓だ、バルコニーはどうした?この引き戸を開けたら真っ逆さまか?コワイぜよ。
 バルコニーがあるとそれに遮られて視界は半分くらいになるものね。付けたくないよね。そう宣伝したいキモチはわかるが計画には付いているものをウソ写真でごまかすのかなぁ?。
 ちらしの端に小さく「CGによる合成写真で実際とは異なる」と書いてあった。断われば何やっても構わない。政治の2文字がアタマをよぎる。

 やたらイケナイものが増えると街はきな臭くなる。ドンパチやってガス抜きでもすっか、である。クニを守るくらいは当然だとこのクニの首謀者たちはグンタイを是認し後押しする。アメリカだって「国防」総省が地球の隅々まで出かけて行って「守って」いるのだからね。目指すは地球防衛軍か、バカめ。

 切れるマンションに住んではイケナイ。買ってはイケナイ。アレはあってはイケナイものだ。鳥のように眺望が?やめておけ、ヒトは飛べない。ましてやコドモがいくら上手に育ったって鳥に生まれ変わらない。
 鳥になれないコドモが死を想定する、そのチャンスをしっかりこしらえているのは確実にわたしたちの社会である。イジメはムカシからあったとかしっかりしろとか、そんな言説は何の役にも立たないだろう。

 ゴミの山に粉飾された「良い」暮らし=生活からの脱出が急務である。(より良く)暮らしたい・生活したいという願望そのものの解体がいま強く求められていると考える。すでにわたしたちは、暮らしたいとか生活したいとかを「まずは」考えないようにしないといけない地点にまで来てしまった、という実感を持つ。
 これまで何かあれば、おうむ返しのように暮らしが大事だとかそれが原点だとかと、そこに寄り掛かった振舞いばかりをわたしたちは重ねてきたように思う。暮らしや生活は砦ではない。そんな場所に立てこもって(引きこもって)いったい何ができた?!
 慣習のようになったその思考フレーム自体が問題であろう。そこをどうにかしない限り、きっとわたしたちはわがままな王様に相変わらず首筋をつままれたままなのである。

 キミ死にたもうことなかれ。
 死ぬな!


061115 ダダ

 ちぇっ、また撮るタイミング逃しちゃった。デジタルカメラ、ポケットに入れてブイブイ歩く...はずが畑で落っことして修理したあと勝手気ままなことったら。突然ズームイン、突然ムービー、突然...、これはまだ壊れてる。あらためてしげしげ見るに、ナンダこのインターフェース。ポケットに入るだけが能じゃない。使えなくっちゃ、道具だもん。
 ちぇっ、って言えばクルマ、アヤしくおいでおいでをするものがないぞ。腹減ってるのに「こればかりは食うもんか」っていうものばかりじゃないか。4×4,マニュアル、この組み合わせでもう希少。オートマ、いいってかぁ?。新パンダね...、前のカタチで良かったのにぃ。にぃにぃにぃ。
 ドーグ性、それはヨノナカから自由であることを意識するところから考えがはじまる。そしてドーグはヨノナカを作る。
 オートマって、アレはタイヤはついているがモノレールみたいなもんだ。買ってはイケナイ。そうノってはイケナイ。ショーウインドウでわくわくなんかしちゃイケナイ。クルマだけじゃない、アレもコレも、みんなレールの上だ。上だ。上だ。だだだだだー。

 「キチっと衛生管理された工場で作られたおにぎりと、台所であれやこれやしているお母さんが握ったおにぎりと、どっちが安全安心だと思いますか?」って恫喝する通産の役人。米国の牛肉は安全だから食えって。耳を疑った。まーだこんなこと言ってるのか...、唖然。
 子供たちに「自殺したって問題の解決にならない。身近な人に相談をしなさい。」だって、文科省の役人。ラジオからこれが聞こえてきた時にはぶっ飛んだぜー。サイテェーだ。

 エライ人をどんどんクビにして美しいクニ、いや居場所をこしらえよう!


061104 京都〜足助

061103Kyoto

 ディテールが表出するのは困るというJさんの話を、韓国のお茶を飲ませる店で聞いていた。会いたいと思っていた店の主がふわりとあらわれて驚く。自宅を見せていただき、中世に描かれた着物の文様が持ったであろうその意味について弾んだ話となる。京都の街中に縫い込まれたディテールとしての歴史のウルサイことったら。

 足助もおんなじだ。山々にまでそれは塗りこめられる。

061104Asuke