Usso800_0702

雑記帳目次へ

070228 年輪

 家中を放浪して歩くパートナーが、お尻みたいでかわいいと気に入っていたiBook(G3 366MHz SE)が7年目にして息を引き取り、当座しのぎにと眠っていた同年代のPowerBook(G3 400MHz 通称Pismo)を引っ張り出すもトラブル続きで、年寄りばかりじゃなぁと、いつものナゾのPC屋;Do-夢でデモノを捜索。最新のに近いMacBook(intel Core 2 Duo 1.83GHz)を入手して当方ではいちばんカシコイ存在となった。

 とたんにシットしたか奉公5年目の仕事場のメインPowerMac(G4 933MHz 通称QuickSilver)に発作の兆候が出、これはとりあえずHDD増設でしのごうと思いきや、あちこち引っ張り回している中古のPowerBook(G4 12" 867MHz)からはジャリジャリと異音発生。まずい。

 靴にありついて ほっとしたかと思うと
 ズボンがぼろになっている ズボンがぼろに
 ズボンにありついて ほっとしたかと思うと
 上着がぼろぼろになっている 上着がぼろぼろに
 (「歯車」山之口獏)

 齢は重ねるものである、とうそぶいてカッコつけるにはまだしばしの時間が必要だろう。
 ウソをつくには年季(修練)だ。また、基本的にウソをつくのには対象が要る。誰も聞いてくれなきゃ意味がない。その点政治家はたいしたもんである。わたしたちも(それとはずれた位相で)大いにうそぶいて、彼らに拮抗し乗り越える必要がある。

 過日亡くなった松川監督はドキュメンタリー映画の大御所だが、「本当のことを凌駕するフィクション」を作品に焼き付けた。現に在るものをファインダーで切り取りつなぎ合わせた映像には、いわゆる真実というものが数段高められ、作品として提示がなされた。つまり優秀なうそつきだったというわけだ。
 見えるのではない、見るのである、という姿勢の結果、対象物はまな板の上に乗っかった。

 乗っけられたものをさばくのは手(からだ)である。現代の手は肥大化したキャッチャー・ミットのようになって、受動にだけ忙しい。見るというまなざしは包丁を持つ手(からだ)を要求する。ミットでそれはかなわない。

 そして、からだは装う。
 装う、たとえば木綿という存在を少しでも意識したとたんに目を覆いたくなるような背景が現れる。
 ステキの向こう側に血塗られた世界が存在する。クローゼットだ物置だ大きな家だいや段ボールに入れて払い下げだと、窒息するような装いの山に埋もれて今も息づくのはプランテーションというホロコーストである。

 わたしたちは勤勉を実行し、着られる・食べられるようになっていると思わせられているが、着る・食べることの偏在こそが近代の成立要件であり、そう「なっている」んではなく「している」主体である(弱めて言えば、させられている)ことはちゃんと背中に!刻まれている。
 歴史を勝ち抜いた消費の王様がステキと自認するそのハダカ加減をきちんと意識するためにも、わたしたちにはウソをつく想像力が必要だ。

 靴にありついて ほっとしたかと思うと
 ズボンがぼろになっている ズボンがぼろに
 ズボンにありついて ほっとしたかと思うと
 上着がぼろぼろになっている 上着がぼろぼろに