2009年12月号 / Top
USOニュース
発行;庭しんぶん
庭プレス社
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091228 木こりごっこ
文;ナガタ・ま(庭プレス社)
 11月はじめ、いつもより遅いかなーと思っているうちに雪。ちゃんと来るんだな。
 それチャンス、山から薪を下ろそう、ということに。
 薪作り。「今頃!」「来年用?」と言われるほど遅いことはわかってる。キリギリスだもの。
 そうだよ、あわよくば燃やすのだ。燃えればね!

 屋内に2台のストーブ。ひとつは灯油、もうひとつは薪。築70年近くにもなる、およそ「夏を旨とする」みたいな開拓小屋を改造し、キモチばかり気密・断熱ははかったが、ぶち抜いて一室化したこともあり、寒さが本格化すると2台を燃やす日々。
 灯油はスイッチひとつで便利だが、じゃんじゃん灯油を食べるのをケチりたいし、第一暖まり方がヤな感じなので補助的使用ということにしている。
 その点薪ストーブはやわらかいその暖まり方が人をとりこにさせる。パンも専用の竈を用い薪で焼く。電気やガスオーブンなどとは格段に違う、これでなければというものが手に入る。だからストーブや煙突などの管理の煩雑さもさることながら、薪の調達からは逃れられない。

 眼前の山の斜面に5年前の台風で倒れた大木がまだ横たわっている。過去何度か引きずり下ろしたのだけれど、まだ残っていて整理したかった。夏は緑の中、冬は雪の下にお隠れになっているのだが、10月にもなると林の葉が落ち、見通しが効くので気になり始める。倒木の存在は自然なことで、片付けるなどというおせっかいの必要は林にとってみればない。歯が生え替わるように新たな樹木が成長し、長年のうちにほどよい感じに変わっていく。ニンゲンが「荒れている」なんて感じるのは勝手なものだ。倒木をそのままにしておけば土を肥やす。キノコは生える、いろいろなイキモノのよりどころになる。薪ほしさに「整頓」だなんてなんのこっちゃ、ではある。
 ただ、人の暮らしに隣接するこういった林は燃料とか畑に使う落ち葉とかの採取場所、よく言われる里山と位置づけられる。極端に自然性を弱めない配慮をしながらのつきあいが必要だ。そしてその範ちゅうで植林がそろそろ課題という段階だ。

 斜面の林床にたくさん生えているクマザサの上に軽く雪が乗ると、その上はよく滑る。それを利用して重い木を降ろし、薪に仕立てようというわけである。時期を見逃すと雪が深くなり埋まってしまう。絶妙なタイミング。
 細いものならまだしも径50センチを越えるものになると、薪2本分、約70センチの長さに切っても移動はヨイショで、しかも途中の立木に引っかかるので「ヨイショ、ヨイショ」の繰り返しだ。まず切る。少したまったのを下方に滑り下ろす。立木に引っかかったのをはずしながら少しずつ少しずつ下っていく。雪がある分材木は滑らせやすいが足も取られる。あれぇっとひっくり返る。
 汗かきながらひいふうとしんどいが、傍目には何やって遊んでるんだろうね、かもしれない。
 実は楽しい。

 木はチェーン・ソーで切る。
 こいつの爆音は嫌いだが、昔のように手鋸で切るなんてことは想像するだけでも気が遠くなる。5年前、あまりにたくさん倒木ができたときに買ったチェーン・ソーは、近所のホームセンターの安物という出自の割りにはよく働いた。一度分解修理に出したあとも活躍していたが、寄る年波だろうか、エンジンの掛かりがひどく悪くなったので、再度入院。フィルター? きっとガソリンの流れが良くないところがある。しかし分解し元通り組み立てる自信がない、というか道具を自分で整備しながら作業をするゆとりが持てない。あっという間に雪が来る、キリギリスだもの...、なので。
 近くの金物屋に修理に持って行く。「結構使ってますねぇ、あれこれ部品を交換したり、やっぱ人件費ですかね、手を入れる(外注)といい値段になるでしょうねえ、新品に近いでしょうかねぇ...」いやいや「最低限のことをしてください」にする。
 後継にもう少し良いものをと郊外の巨大なホームセンターに探しに行く。輸入ブランドもののハスクバーナなどは置いてないが、国産のそこそこのものは並べてある。売り場の気さくなお兄さんが愛想良く説明してくれる。作りやエンジンが丈夫であることを優先し「タナカ」というメーカーのに決めた(余計な?安全装置をはずした廉価版)。これとは別に格好良いのもあってちょっと惹かれた。それは持ち運びに軽いし、安全装置もちゃんとしている。エンジンのスタートも軽い。でもややちゃっちい。「タナカ」はそれがぜんぶ逆。

 強力で頼りがいのあるチェーン・ソーではあるけれど、問題はすぐに刃が切れなくなるということだ。。当然のことながらチェーン・ソーという機械はエンジンが順調に回ることと刃が切れることが機能の両輪だ。どっちが欠けても役に立たない。木だけを切る分には切れ味は結構長持ちする。柔らかい松と硬いタモ(しかし松の節は硬い!)などで多少の違いはあるけれど。問題は石。チェーンソーで石は切れない。そう、この山は石だらけなのだ。表土が浅くてよくこんなところに大きな木が生えると感心するくらい。そこに木が倒れる。そうするとどこかに小石がくっついていやがる!。おまけに雪で発見が遅れる。「おっ」と思ったときはすでに遅い。刃先が石に触れ、丸まっちゃってがくんと切削能力が落ちる。...仕方がない、作業休止。刃にヤスリを当てる。斜面の不安定な格好での刃研ぎはなかなかに困難。ふもとに下りて出直しがいいのかなと思いつつ、イマイチの刃で力任せに切ろうとする。えらいくたびれる。

 チェーン・ソーの取扱説明書には注意がいろいろ書いてある。作業の服装、切る姿勢、作業時間は2時間以内、夕暮れなどは避ける...。わかっている。それを踏み外すとキケンであること甚だしい。わかっているのに...キリギリスだものなあ、キケンのゾーンについ近づく。

 キケン...、わたしが子どものころ、祖父は裏山に薪を切り出しに出かけていた。ちょうど今時分、いや2月ころだったか。わたしはお昼のお弁当を運ぶお使いをさせられた。裏山といっても30分ほども歩いたんだろうか、冬枯れの薄暗い森に入っていくことが心細かった感覚をどうにか覚えている。
 木は雪のあるうちに切り出して(ベストなタイミングは2月の新月前後と聞いた)里に下ろし、雪融けと共に切り刻んで薪に仕立て、秋までのあいだ日の当たる風通しの良い場所に積んで乾かす。雪が降る前に物置に取り込み、その後燃料にする。たいがい1年分を越える量が準備される。なんかゆとりの貯金みたいな安心がそこにあった。切ってすぐ燃やそうだなんてキリギリスも甚だしいのだ。

 ある日、祖父がよろめきながら家に戻ってきた。枝の細木で杖をつきながら。膝の下に手ぬぐい、それが血で染まっている。どうも斧で一撃やらかしたらしい。
 病院に行かない。炉端に座り込み、しかめっ面で消毒・縫合など自分でやらかした。小僧は怖いからそばに行けない。しかし目は釘付けであった。

 祖父は手鋸や斧で薪を切り出した。機械力なし。ロープ、鉄の鎖、いくつかの手工具(もう名前も忘れ去られる)。運搬は馬そり。それはそれは大仕事だったろう。わたしには文明の利器。すぐ目の前の山から転がし下ろすだけ。比べればたいへんな「小」仕事。
 祖父の重労働はつらかったのか?
 かもしれない。でもどこか淡々としていたような印象が強い。なすべきことをしているだけ...諦観?達観? そんなことを聞き出す前に亡くなってしまった。
 一方、わたしは楽しい。たいへん楽しい。今どき自分で木を切り出して薪にするなんてことをどれほどの人がやれるか、なんちゃって口笛ピューピューである、...ようにしたい、とまあアタマでやっている。畑も家畜の世話もそう。趣味の拡張のしすぎかもしれない。趣味だからオシゴト優先。オシゴトが忙しいと趣味が滞る。で、キリギリスになる。

 かろうじて記憶に残る祖父のありようは1960年前後のものだ。彼は開拓農民。そのさんざんな労苦を目の当たりにした息子(わたしの父)はそのころ農業を継がず商売に鞍替えした。農業で家族を率いる責任がなくなった祖父は、日々の暮らしを支える自給の規模だけを維持する立場に変わった。持病の喘息が悪化した時期でもあり、がんがん働けなかったということもある。したがって畑は適当な規模に縮小され(といっても果樹の林や遠くに田んぼもあった)、幾種類もの家畜もややペットのように飼っている、というたたずまいが生じた。
 わたしは農業の現場は一種の工場だと思っている。そこでは畑も家畜もなにか最大効率を求めフル回転を余儀なくされる。植物(野菜や穀物)も動物(家畜)も生き物としての多様さは二の次で、いかに生産に寄与できるかを評価の軸にせざるを得ない。彼らはひじょうに一面的に存在する(させられる)。この時期、わたしの生家ではこのタガのようなものがぱたっと外れたということであった。
 でも長くはなかった。10年、15年?、ほんとうに短い時間だったと思う。
 それはその時代をまったく反映していた。生活者の身の回りに整えられてきた、自力で暮らしを切り回す多くの知恵や物品が雪崩をうってスクラップに変わっていった。
 あったものがなくなる、その現象にぎりぎりのところでわたしは立ち会ったということになる。もっと言えば「ある」→「なし」の狭間にひょろーっと立ち現れたユートピア的な世界を一瞬通過することができた、ということなのかもしれない。

 懐古趣味に陥らないようにせねばならない。失せたものはそのまま復活させようがない。正しかったものが間違ったものになった、などという図式もゴメンだ。しかし、培ったものが無くなる、ということがほんとうにあっけないものだということを、悔しさと共に強烈に記憶させる必要があると考える。
 飛躍を承知で言えば、それはヨノナカという社会にあって個人がどういうポジションを取るべきか、ということに大いに関係がある。きっとそれは普遍的な課題だ。

 薪をストーブにくべる。薪を都会の薪屋さんで買うとえらく高いものにつく。カロリー換算で灯油を上回る。大勢はすでに趣味の世界に入りかけている。
 しかし薪は体を暖める。灯油ストーブの暖気が表面的なのに比べ、なにか体の芯に熱がたまってくる感じ。灯油ストーブが、潤沢にあるがその味が失せたスーパーのニンジンなのに比べ、薪ストーブは土の神様を引き連れ力強く己を主張する庭のニンジンである。
 だからか薪ストーブの横の席に座ると魔法にかかる。頬杖をつきながら、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかりながら、テーブルに突っ伏しながら、違う世界に連行されてゆくことになる。

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